風日誌


柳楽優弥・「しゃべり」の型・『霊界の境域』


2004.07.12

 

・柳楽優弥
・「しゃべり」の型とその守破離
・シュタイナー『霊界の境域』
 
東京FMの朝の番組「メルセデスベンツスーパーコラム」の
今週のゲストは、カンヌ映画祭で史上最年少14歳で
最優秀男優賞を受賞したことで話題の
映画『誰も知らない』の監督是枝裕和と柳楽優弥。
とくに内容のありそうな会話はないのだけれど
柳楽優弥のシャイで無口なぼそぼそした声が妙に印象に残る。
 
個性的な俳優の「しゃべり」というのは
アナウンサーのような「しゃべり」とは
あたりまえなのだけれどとても対照的だとあらためて思う。
そして自分がどのような「しゃべり」をしているかを思うと
それがとても不安定であることにこれもあらためて思う。
ぼくには「しゃべり」の自然なスタイル(型)はあるのだろうか。
意識的にせよ無意識的にせよ。
俳優にせよアナウンサーにせよ、
そこにある種の型があるとき、それはとても個性的に感じられる。
しかも個性的な俳優の場合、その型が小さく安定したままではなく、
常にある種の変化のなかにありそれが展開していくところがある。
いってみれば、「しゃべり」の型の「守破離」のようなもの。
 
ときに、というかわりといつものことでもあるのだが、
ぼくは自分で「しゃべり」をしていて
それに対してひどく憂鬱になってしまうところがある。
現象としていえば、声がでなくなるというか、
声をだすのがいやになってしまう。
「しゃべり」をする機会が少ないからというのではなく
仕事上、プレゼンテーションなどもする関係もあって
むしろ「しゃべり」をする機会が少ないとはいえない。
そしてときにひどくお「しゃべり」になったりもする。
しかし、そうしたこともふくめて
自分のなかになにか型のようなものによる安心感がないことに気付く。
その原因はある意味では不安やおそれのようなものかもしれない。
そしてアナウンサーのような
ある意味無味乾燥かもしれないが安心できる「しゃべり」と
ちょっとあこがれてしまうような、個性的な俳優のような「しゃべり」と
そのふたつのあいだで自分の「しゃべり」を
どのように位置づけていいかわからない不安とおそれ。
自分の「しゃべり」がどこにあるのか
わからなくなってしまうような(わたしはだあれ、ここはどこ、的な)
そんな不安とおそれ。
 
なんだか大げさなようだけれど、
そういう自分をどう位置づけていいかわからないという不安や恐れは
現代のようにマス情報がさまざまものを平板にしていくような
そんな時代においてはある程度だれでもが
多かれ少なかれ体験しているのかもしれない。
 
ところで、数日前からシュタイナー関連では
ひさしぶりに『霊界の境域』(風の薔薇)を読み返している。
いつものことながら何度読み返してみても
まるではじめてよむときのような驚きを感じる。
 
この『霊界の境域』には
「霊界の境域」「霊的認識の階梯」「宇宙論・宗教・哲学」という
3つがおさめられていてどれもシュタイナーの示唆している霊的な認識を
まとまって概観するために不可欠の内容になっている。
イマジネーション認識、インスピレーション認識、イントゥイション認識についても
おそらく「霊的認識の階梯」「宇宙論・宗教・哲学」が
もっともまとまった形で示唆されているのではないだろうか。
 
こうした霊的認識論を読んでいるといつも
ぼくという存在はどういう「個性」なのだろう思うようになる。
そして今自分でばくぜんと思っている自分の個性(パーソナリティ)が
いかに不安定で心もとないものかを思う。
それはなにも自分の前世を知ればそうでなくなるようなものではない。
そういうことを知るのはどうでもいいことであって、
むしろ重要なのは自分がどこに向かおうとしているのかを
あらためて自分に問い直さなければならないという意味で
自分がいかに自分で自分を方向づけることができていないかを
思い知らされるというか。
それはある意味では、先の「しゃべり」の型の「守破離」にも似ている。
自分を自分でどうとらえていい、どう方向づけていいかわからない。
ぼくはぼくにとって永遠の謎なのだ。
そしてそれこそが「自由の霊」としての人間の課題でもある。
 
 

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