風日誌


追憶のルドルフ・シュタイナー


2004.078.31

 

・マリー・シュタイナー『追憶のルドルフ・シュタイナー』
・中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』
・シュタイナー『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』
 
7月の最後の日。
台風が四国に上陸したそうである。
岡山でもとても風の強い一日になった。
ちょうど祭りが予定されていたが
ほとんど中止になっているようだ。
 
7月はおそろしいほどの暑さだったが、
仕事も山のような仕事に追われた一ヶ月だった。
仕事に時間をとられすぎてなかなか勉強が進まない状態だが
8月はもう少し時間をとれたらと思っている。
 
さて、マリー・シュタイナーの『追憶のルドルフ・シュタイナー』が
佐藤公俊さんのHPで訳出された。
(今日台風情報でお天気キャスターの名前が佐藤公俊という名前になっていたので
久しぶりにHPにアクセスしてみたところ、7/28付でこれがアップされていた)
http://homepage.mac.com/satokk/marie/marie.html
1932年の10月、シュタイナーが神智学のサークルで講義をはじめてから
30年後のマリー・シュタイナーの「追憶」である。
 
そのなかにこうある。
 
        「人智学」という、より気取りのない名前が、東洋と西洋を、
        ミクロコスモスとマクロコスモスを、認識において結合するた
        めに、自我意識に至るこの道のために、選ばれました。その名
        前は謙虚な想いから、また、人間から神への認識の道が自己認
        識から宇宙認識へと至るがゆえに、選ばれました。そして新し
        い衝動に明確な性格付けが与えられました。「人智学は、人間
        における霊性を宇宙における霊性へと導くことが出来る認識の
        道である。」 
 
東洋と西洋を認識において結合する。
そのテーマは今さらに切実なかたちで
私たちの目の前に提示されているといっていいだろう。
 
昨年出版されていた中沢新一と河合隼雄の対談
『仏教が好き』(朝日新聞社)を読んでみたのだが
そこでもテーマはまさにそれではないかと感じた。
そこでは「仏教」がクローズアップされているが
実際のところそこで語れられている内容をさらに展開させていくと
今この日本においてシュタイナーを受容することが
いかに重要であるかを実感させられるのではないだろうか。
 
しかし、ある意味でシュタイナー受容の前提となっているのが
こうした中沢新一や河合隼雄の示唆している認識にならなければならないのに
そうなっていないというのがひとつの問題としてあり
またそうした認識の先にシュタイナーの示唆したものが
ただしく認識される方向にないというのが
もう一つの問題としてあるのかもしれないと感じた。
 
さてこの『追憶のルドルフ・シュタイナー』では
シュタイナーが神智学協会と決定的に行き違うことになった
1912年というエポックについてのことについてもふれられている。
 
トポスのHPにもyucca訳で紹介している
1912の12月のケルンでの講義
『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』についても
次のように述べられている。
 
        それらの言葉は、ケルンで同じ年の十二月の最後の講義に見いだ
        されます。そこでルドルフ・シュタイナーは、「バガヴァッド・
        ギーターと聖パウロ書簡」について語り、私たちの目の前にキリ
        スト教認識の光で観た純粋な東洋の叡智を、夢にも思わなかった
        偉大さで輝き出したのでした。締めくくりの言葉で彼は、彼が創
        設した運動を担う人々に、自己認識を成し謙虚な姿勢を崩さない
        ように、再三再四懇願しました。 
 
この『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』という講義は
おそらくとても重要な講義のひとつで、
なぜキリストなのかということを理解するためには
欠かすことのできないものだと思われる。
 
さきの『仏教が好き』にしても、これが理解できていれば、
彼らのいう「仏教」がまさにシュタイナーのいう「キリスト」である、
ということが理解されるのではないかと思われるのだ。
それはもちろんふつういわれるキリスト教ではない。
東洋と西洋を統合する視点がシュタイナーのいう「キリスト」にはあるのだ。
 
 

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