網野善彦エポックが続いている。 生きた歴史を学ぶということはどういうことなのか。 それが少しずつわかってくる。 以前は歴史のなにがおもしろいのかわからなかったが、 シュタイナーを読むようになって ようやく歴史を学ぶことの意味がわかるようになっていた。 なぜ以前は歴史がおもしろくなかったかというと やはり学校での授業の弊害なのだろうと思う。 それは事実(とされるもの)を覚えていくだけのことだった。 たとえば網野善彦の出世作『蒙古襲来』(小学館文庫)の解説で、 北方謙三が「歴史は事実であり、視点のとり方によってさまざまに 変わることがあるなどとは考えていなかった私は、 ここではじめて、ほんとうの歴史を学び始めたのだと思っている」 と書いているように。 網野善彦には歴史をどう把握するのかその全体像があり、 そこからとても熱のこもった記述がなされている。 網野善彦は自分で「無神論者」だといっているが こうした深い「見識」のもと、深い知と愛に裏づけされていて、 変に宗教的な人よりもずっとむしろ宗教的な深みに達していると感じる。 むしろ現代においてはそうした「無神論者」であることを 出発点にするほうがいいのではないかと思える。 宮田登との対談『歴史の中で語られてこなかったこと』(洋泉社/1998)で 現代常識になっている次のような視点を変えることが必要であると述べている。 ここで「この本」と指されているのは、 『日本の社会の歴史(上・中・下)』(岩波新書)である。 私が最近、根底から考える必要があると思っているのは、「日本とい う国は昔からあって、いつまでもある」というぼんやりとした意識、 「日本は孤立した島国だ」、「日本は農業社会である」という常識の 三点で、これらは、現代日本の「公理」になっていると思います(笑)。 このことを痛感したことが、この本を最終的にまとめようと決心した きっかけになっています。この三つのすべてに関係してくるのは、明 治以降百数十年、とくに敗戦までの七十年に及ぶ国家的な教育の果た した役割が、極めて大きいということです。 (P138-139) ぼくはあまり学校の勉強を真に受けなかったというか 半ば落ちこぼれていたので、比較的影響は少ないのかもしれないが、 やはり学校教育の影響というのは、深い影響を及ぼしているのだろう、 と最近はとくに痛感するようになっていたりする。 そこで「常識」として刷り込まれてしまうと そこから抜け出すことは容易ではないということだ。 とくに回答マシーンのような形で教育されてしまうと すでにその人は半ばロボット化してしまうことになる。 この対話のなかでもこういう対話がある。 宮田 僕は、教科書そのものをあまり信用していませんね。教科書に 依存して云々する教育法そのものがおかしい。 網野 まったく同感です。 (P129) そういえば、学校でのテストのときに ほとんど教科書を読まなかったりするぼくは 後でどうしてそんな答えになるのかわからない。 こういう答えはなぜ×なんですか。 というふうに質問したことがあるのだけれど、 そのときに先生の答えはこうだった。 「教科書に書いてあるでしょ」 つまりこういうことなのだ。 教科書に書いてあることが「正解」であって、 それ以外は「間違い」だということ。 たとえ可能性としてあっても「間違い」だということなのだ。 そしてその「正解」を覚え込むことが 「良い成績」をとるための重要な方法になる。 そしてそれを繰り返した人がエリートになり、 やがては官僚になったりもする。 世の中は「正解」から発想された視点で動かされているから、 その他の可能性は多くの場合「間違い」だとされることが多いのだ。 役所に行けばそのことがよくわかる。 それはともかく、網野善彦は面白い。 網野善彦エポックはかなり長く続きそうだ。 |
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