・参議院議員選挙 ・老子 ・美しきもの見し人は ・「日本」の歌 参議院議員選挙が始まった。 今朝の新聞には、おきまりのツーショットの写真に この国を想い、 この国を創る。 というキャッチコピーと、 テーマは「日本」。 という自民党の、わかったようでわからない テーマ表現がなされている。 この「日本」という表現は すでに腐臭のようなものさえ漂っているのだけれど おそらくそれに代わるなにものも 言葉として持ってくることができないあたりに 現在の、思想的な閉塞状況が表現されているということなのだろう。 老子を持ち出すまでもないのだけれど、 天下のすべての人がみな、美を美として認めること、そこから 悪さ(の観念)が出てくる。(同様に)善を善として認めるこ と、そこから不善(の観念)が出てくるのだ。 (『老子』小川環樹訳註/中公文庫) ということなのだろう。 国とか日本ということによって そうでないものの観念が強力に創出されてくる。 人の悪口をいい排するということが 同時に自分を正当化したいという「想」いによって 「創」りだされるということでもある。 「この国を想い、この国を創る。」というコピーには そのことが基底にあるということだけは 意識しておくのがいいのかもしれない。 堀田善衛の『美しきもの見し人は』(新潮文庫)の第4章 「異民族交渉について」にも、 学生時代に、関西へ駆け落ち旅行をした際に、 奈良・京都の寺や古仏などを長め歩いていた際に得た 「感銘」としてこう書かれてある。 ーー古き日本、古く純粋なる日本、日本精神に帰れ、と人は言 うけれども、ここらにあるものは、これは悉く外国種のものば かりではないか!何が純日本なものか!純日本などというもの は、存在しないのではないか。 ・・・・ 文明とは何か、歴史とは何か。私がアジャンタの洞窟のグロテ スクな絵画群を眺めて歩いて得たものは、文明とは、歴史とは、 一言で言ってそれは異民族交渉ということだ、という考えであ った。 (P111-113) 興味深いことに、この『美しきもの見し人は』の最終章には その「美しきもの」によって喚起されるもののことが このように書かれてある。 「美しきもの……」というものは、本来的に言って、またその 実物に接するとき、それは決して、“美しい”ものなのではな い、というのが私の結語である。「美しきもの」は、むしろ逆 に、私に人間存在というものの、無限な不気味さを、まことに、 不気味なまでに告知をしてくれたものであった。(P339-340) 美しいものはない、などとアンチを持ち出すのがここの眼目ではなく、 重要なのは、「美しい」ということを ムードとして浅薄にとらえないほうがいいということなのだろう。 「無限な不気味さ」を内包しているのだということさえ 見失わないでいるとしたら、 その「美しきもの」の危うさを楽しむこともできる。 引用ばかりになってしまうが、ちょうど読み始めたところの 風巻景次郎『中世の文学伝統』(岩波文庫)という 最初1940年に刊行されたものにこうある。 思えば単にうたで通っていたものが、やまとうたでなければなら なくなり、あるいはまた、和歌とか倭歌とかでならなくなったと いうことは、まことに意味の深重なものがある。これは一種の自 己限定であるともいえるし、自己分裂であるともいえるであろう。 何故ならば異国人が私どもの歌を指して「日本の歌」というのな らば事は別であるが、自ら自分の歌をつきはなして「日本の歌」 と呼ぶようになったとすれば、すでに日本の歌でない何かほかの 歌との対立が、彼らの生活の中に生まれていると見なくてはなら ず、そうだとすれば、自分の生活と自分の歌との素朴な結合はす でに揺らぎつつあるからである。 (P14-15) つまり、今回の参議院議員選挙にしても テーマは「日本」、であるというのは 今この「国」は揺らいでいるということが その背景にあるということであり、 おそらくはそれを自覚的な形ではなく、 無意識のなかの「揺らぎ」を喚起させるかたちで あの二人の顔が新聞の紙面にも登場しているということなのだろうと思う。 しかも、その「日本」という表現は、 すでに腐臭さえただよってきているような 相当に擦り切れかけているのである。 それ以外の表現ができないというところに さまざまな危うさが見えているということだけは 少なくとも意識しておいたほうがいいのだろうと思う。 |
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