風日誌


小林秀雄とルオーなど

2004.06.23

 

・小林秀雄とルオー
・美は自然よりも真実である
・「高次の自然」の創造へ
 
先日、島根県立美術館で「ジョルジュ・ルオー展」を観たが、
『小林秀雄 美と出会う旅』(新潮社 とんぼの本)によれば、
このルオー、小林秀雄が一番好きな画家だったようである。
なかでも<ピエロの顔>という
晩年のルオーが愛用していたパレットに描かれたものを
最も愛していたらしい。
 
『近代絵画』ではルオーはとりあげられていないものの、
いずれルオーを書きたいと考えていたようであるが、
結局ルオーについては多くを語ることはなかった。
キリストや聖書のことが避けて通れないのもあっただろうが、
それよりもひとりで静かにルオーの絵と向き合うことのほうを
選んだということなのかもしれない。
小林秀雄はいったい何に向き合っていたのだろうか。
 
ところで今、毎日少しずつ『芸術の贈りもの』(シュタイナーコレクション7)
に収められているシュタイナーの講義を読み進めているのだが、
この講義のなかでもたびたびシュタイナーが引用している
ゲーテの次の言葉の意味について深く考えざるを得ない。
 
	自然からその公然の秘密を打ち明けられ始めた人は、自然の最も
	ふさわしい解釈者である芸術への抑えがたい憧れを感じる。
 
シュタイナーは『新しい美学の父ゲーテ』のなかで、こう述べている。
 
	人は言うでしょう。「美は現実でも、真実でもなく、単なる仮象
	である。完全な美は、自然界のどこにも存在しない」、と。しか
	しこうも言えるのです。「美は自然よりも真実である。自然がそ
	うあろうと望みながら、そうなりえすにいるものが、そこに表現
	されている。」
 
つまり、人は芸術によって「高次の自然」を創造しようとしているのだ。
 
あまりにもわかりやすすぎる例だが、
写真のようにきれいな絵というのがいかに芸術的な可能性から遠いものか
ということがそのことからもわかる。
 
その点、写真のように奏でられる音楽というのは存在しないぶんだけ、
つまり対象をもたないぶんだけ音楽はそういう陥穽からは遠いのだが、
魂に訴えかける力が強いぶんだけ、その時間芸術は
ルーティーンなものを強制する力をもっているのかもしれない。
 
しかも最近のあまりにも簡単になっているデジタル処理のために
なおのこと、音の深みとでもいうものが
遠ざかっていきかねないところがある。
「ライブ」が好まれるのもそういうことでもあるのだろうが、
動員力のある「ライブ」はともすれば芸術というよりも
パフォーマンス化してしまうところがあるのかもしれない。
つまり、「高次の自然」の創造へ向かいにくいということである。
 
その「高次の自然」とはいったい。
ということを問わなければならない。
その問いをしばらく自分に問いかけ続けてみることにしたい。
 
 

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