シュタイナー・コレクション7「芸術の贈りもの」(筑摩書房)、刊行。 これで、隔月刊ででていた全7巻が完結することに。 隔月刊といいながら長引くのではないかと思っていたが、 コンスタントに刊行されていったのはうれしい驚きだった。 まだ最初の「新しい美学の父ゲーテ」という 1888年の講演を読んだところだが、 その講演録の「第二版まえがき」(1909)でシュタイナーが 述べているようにこの講演ひとつにも 非常に重要な観点が提出されている。 今この講演を読み返して、そこに展開されている考えは、 人智学の健全な下部構造であるように思える。それどころ か、まさに人智学的な考え方こそ、この講演録の思想を理 解するのに最もふさわしいとさえ思える。 さて、990夜を数えた松岡正剛の「千夜千冊」だが、 少し前に岡野守也「道元のコスモロジー」(大法輪閣/平成16年3月2日刊)を 読んだところ、988夜に「道元」の『正法眼藏』がとありあげられていた。 岡野守也の視点はやはりかなりニューエイジ的な色があるので、 そこからまさに抜け落ちている部分を松岡正剛が補完してくれているように感じた。 『正法眼藏』を全巻読んでみようとまでは思わないが、 その「コスモロジー」について理解を深めながらも、 松岡正剛的な読み方で少しずつ読んでみることにしたいと思っている。 また、これまで名前だけで読んだことのないのが985夜の石牟礼道子で、 そこでとりあげられている『はにかみの国』という詩集を今読み始めているが その言葉の不思議な力にどきりとさせられている。 松岡正剛の視点には次のようにグレングールドさえ登場する。 こうなると、石牟礼道子の作業が今日の日本にもたらそうとしている ものが、とんでもなくかけがえのない「持ち重り」をもっていること に気がつかざるをえない。 それらは、この何夜かにわたる「千夜千冊」で象徴させれば、杉浦 康平の「かたち以前」と「かたち以降」をつなげるものであり、幸田 露伴の連環に出入りする生死の境界にのみあるものであり、これを別 国の例にも見いだすのなら、グレン・グールドの「北の人たち」であ り、バルテュスの天使としての少女たちであるということなのだ。 しかも、石牟礼はこのような異形にさえつらなるものたちを生んで きたこの国を「はにかみの国」として眺めるという、われわれがまっ たく放棄してしまった「含羞による洞察」によって描ききったのであ る。 松岡正剛がとりあげるような本ではないが、 先日読んだ伊坂幸太郎『重力ピエロ』などが面白かった。 読まないでもいい作家ではあるのだけれど 言葉のテンポとセンスはなかなかいいし、 たとえば「何だよ、遺伝子、関係ねえじゃん!」という言葉が サビに登場してくるように、 DNAに過剰な感情移入をしてしまうような 不思議なまでの真面目さで自縄自縛になっている向きよりも 認識的にはずっと自由度が高いという気がする。 変な学者のスクエアな情感よりも、こうした軽い読物に盛られたもののほうが、 視野がずっと広いのではないかというのが実感である。 DNAはDNAだが、「私」はDNAではない、ということ。 そんな単純なことがなぜわからないのだろう。 |
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