風日誌


問いをもつということ


2004.06.14

 

先週の土曜日の6/12でこのメーリングリストも7周年を迎えたことになるが、
この土日はマーケティングの研修で缶詰状態になっていた。
 
日本にマーケティングが導入?されたのは1955年とのことで
(そういえば、55年体制という言葉がある。偶然か否か。)
来年でマーケティング導入50周年を迎えるとのこと。
その当時は、販売主導(大量生産・販売)が主で、
その後、70年代には調査が主、80年代には生活提案型、
そして今では「顧客主導」型の関係性重視のマーケティングが
なされるようになってきているという。
 
早い話が、つくったら売れるという時代や
「感性」がなんたら、という時代は過ぎて
ただものが売れるという時代ではなくなってきたということ。
でも、そこになにかのヴィジョンが明確にでてきていとか
人が主体的になってきたかというとそういうことでもない。
相変わらず人は、自分でものを考えるようにはなっていたりはしないのだ。
 
ところで、研修の最後にちょっと面白いゲームがあった。
研修はいくつかのチーム編成で行なったのだが、
各自がある「自分はこうする」と宣言する言葉を紙に書き、
それについてチームの他のメンバー達がその紙上で質問をしていき、
その質問に答えを書く(ぼくのチームは7名だったので6つの質問が出される)。
そして、そのサイクルを4回続けておこなう。
所要時間は基本として1つの質問について1分程度。
つまり約30分で7人のそれぞれが発した「宣言」について
他のメンバーが質問&回答していく紙がぐるぐると廻っていく。
 
やってみてあらためて実感させられたのは
答えるというのはそれなりになんとかなるけれど、
問いを持つということは何と困難かということ。
問題意識がないと問いは持ち続けられないのだ。
つまり、問いには答えが内包されているために、
問いに答えるということにはすでにある種の方向づけがある。
しかし何か質問しなさいということになると
それはまるで「光あれ」ということにも似た何が創造的なものがある。
 
思い起こすのは、シュタイナーが労働者講義で
受講者に対して「何か質問を思いつかれましたか」と問いかけ、
次々とさだれる質問にうれしそうに答えるところと
治療教育講義のなかで受講者の質問がないと激しく怒るところ。
問いをもたないでただただ話を聞く非創造的行為を
シュタイナーは嘆いていたのかもしれない。
とはいえ、シュタイナーのあの話の内容なので
質問をすることは実際とてもむずかしいのだけれど・・・。
 
さて、忙しさにまぎれ、憂鬱質傾向が助長されがちで、
このトポスで問いを書き込むことを億劫がっている昨今だけれど、
もそっと、そこに多血質部分を注いでみなければと思っている。
そういえば、自分の傾向をふりかえってみると、
いろいろ関心事項があるとそこで多血質部分を消費してしまって
コミュニケーション的には憂鬱的になってしまうことも多いようである。
面倒くさがりで腰が重いということだ。
そういえば、いまだに、知人等に転居届さえ出せていない。
少し前にハガキに写真を入れたものをつくったまま
宛先さえ書くのを面倒に思ってそのままになっていたりする。
やれやれ。
 

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