先週の土曜日の6/12でこのメーリングリストも7周年を迎えたことになるが、 この土日はマーケティングの研修で缶詰状態になっていた。 日本にマーケティングが導入?されたのは1955年とのことで (そういえば、55年体制という言葉がある。偶然か否か。) 来年でマーケティング導入50周年を迎えるとのこと。 その当時は、販売主導(大量生産・販売)が主で、 その後、70年代には調査が主、80年代には生活提案型、 そして今では「顧客主導」型の関係性重視のマーケティングが なされるようになってきているという。 早い話が、つくったら売れるという時代や 「感性」がなんたら、という時代は過ぎて ただものが売れるという時代ではなくなってきたということ。 でも、そこになにかのヴィジョンが明確にでてきていとか 人が主体的になってきたかというとそういうことでもない。 相変わらず人は、自分でものを考えるようにはなっていたりはしないのだ。 ところで、研修の最後にちょっと面白いゲームがあった。 研修はいくつかのチーム編成で行なったのだが、 各自がある「自分はこうする」と宣言する言葉を紙に書き、 それについてチームの他のメンバー達がその紙上で質問をしていき、 その質問に答えを書く(ぼくのチームは7名だったので6つの質問が出される)。 そして、そのサイクルを4回続けておこなう。 所要時間は基本として1つの質問について1分程度。 つまり約30分で7人のそれぞれが発した「宣言」について 他のメンバーが質問&回答していく紙がぐるぐると廻っていく。 やってみてあらためて実感させられたのは 答えるというのはそれなりになんとかなるけれど、 問いを持つということは何と困難かということ。 問題意識がないと問いは持ち続けられないのだ。 つまり、問いには答えが内包されているために、 問いに答えるということにはすでにある種の方向づけがある。 しかし何か質問しなさいということになると それはまるで「光あれ」ということにも似た何が創造的なものがある。 思い起こすのは、シュタイナーが労働者講義で 受講者に対して「何か質問を思いつかれましたか」と問いかけ、 次々とさだれる質問にうれしそうに答えるところと 治療教育講義のなかで受講者の質問がないと激しく怒るところ。 問いをもたないでただただ話を聞く非創造的行為を シュタイナーは嘆いていたのかもしれない。 とはいえ、シュタイナーのあの話の内容なので 質問をすることは実際とてもむずかしいのだけれど・・・。 さて、忙しさにまぎれ、憂鬱質傾向が助長されがちで、 このトポスで問いを書き込むことを億劫がっている昨今だけれど、 もそっと、そこに多血質部分を注いでみなければと思っている。 そういえば、自分の傾向をふりかえってみると、 いろいろ関心事項があるとそこで多血質部分を消費してしまって コミュニケーション的には憂鬱的になってしまうことも多いようである。 面倒くさがりで腰が重いということだ。 そういえば、いまだに、知人等に転居届さえ出せていない。 少し前にハガキに写真を入れたものをつくったまま 宛先さえ書くのを面倒に思ってそのままになっていたりする。 やれやれ。 |
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