風日誌


ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのムーティ

アッレーグリ「ミゼレーレ」


2004.01.02

 

昨日のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートの
ムーティの指揮がとても深く印象に残った。
ムーティというとこれまでかなり苦手意識が強かったのだけれど、
昨日のムーティは、素直にぼくの鼓動を心地よく弾ませてくれた。
「天体の音楽」という曲もとても印象に残っている。
もちろんアンコール曲のノリも最高だった。
 
こうして苦手なものがそうでなくなるときというのはとてもうれしい。
苦手というのはぼくがどこかで垣根をつくっているということでもあるからだ。
できうればいまだ夥しくあるその垣根が今年も数多く変容を遂げんことを。
 
少しだけだけれど、今日はBSデジタルで、板東玉三郎の古典芸能講座の
文楽のところも興味深く見ることもできた。
ぼくは古典とかにも疎いのだけれどこうした機会をとっかかりにしながら
そこからひとつずつ得るものを見つけていくのはとても楽しい。
これは垣根を超えるというよりも未だ慣れ親しんでいない国を旅するに似ているだろ
う。
未知のものが現れることでそれまで自分の意識しにくかった領域が発見されることに
なる。
 
昨年は、レオナルドやミケランジェロ、ラファエロなどの絵画にしてもそうだけれど、
やっとどこかでなにかの端緒を得ることのできた年だったように思う。
蕪村や芭蕉の俳句や宗祇の連歌もそうだし、徒然草や方丈記なども
ようやくまるではじめて知ることができたように読むことができるようになった。
西行などもそうである。
今は、シュタイナーのギリシア神話についての講義から刺激を受けて、
ギリシア関連のもの、ソポクレスの「オイディプス王」や
R.S.ブラックの「プラトン入門」を読んでいるところなのだが、
そうしたギリシア関係のものもこれまでとは少し受け取り方が違ってきているのかも
しれない。
哲学にしてもやはりソクラテス、プラトン、アリストテレスあたりを
あらためて見てみる必要を痛感している。
 
R.S.ブラックの「プラトン入門」には、プラトンが置かれていた、シケリアなどの
いわば政治的状況までわかりやすく書かれている。
そういえばそうしたことはこれまであまり詳しくは知らずにいた。
そうしたこともふまえながらのプラトンというのは
これまでとはまた違った目で見ることができるかもしれない。
 
あたりまえのことではあるのだけれど、この「プラトン入門」に
ソクラテスについての次のような記述がある。
 
	ソクラテスは専門の教師ではなかったし、何一つとして人に教えたことはないと語
った。
	彼によれば、彼が知っている唯一のことは、彼自身が無知であるということであっ
た。
 
やはり、こうした原点ともいうべきことは常に忘れないようにしたい。
これは自己教育の基本でもあるのだから。
 
自分がいかに何も知らずにいるかを知ることができると、
なんでもはじめてふれるような新鮮な気持ちで受けとることもできる。
こんなに魂の栄養になることはない。
シュタイナーにしても、やはりいつもはじめてふれる気持ちで
その精神科学的なありようをうけとめていきたいものである。
 
さて、今日の音楽は、グレゴリオ・アッレーグリ(1582-1652)の「ミゼレーレ」を
タリス・スコラーズできくことにする(PHCP-1903)。
 
このCDには、パレストリーナ(c.1525-1594)の「教皇マルチェスのミサ曲」も収め
られているが
こうした曲は、あのミケランジェロのフレスコ画の描かれている
ヴァチカン宮のシスティーナ礼拝堂で荘重に鳴り響いていたということである。
 
アッレーグリの「ミゼレーレ」は、モーツァルトにちなんだエピソードで有名である。
ローマを訪問中の14歳のモーツァルトがそのシスティーナ礼拝堂で行われていた典
礼で
門外不出の秘曲として知られていたこの曲を
宿にもどってから記憶をたよりに全曲をほぼ完全に書き写してしまったというのであ
る。
よほど深く印象に残ったのだろうが、確かにこの曲は
ゲーテも「想像を絶するほど美しい」という賛美を残しているように
静かに新しい年を迎えるにふさわしい透明な祈りに満ちている。
 
 

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