風日誌


教養・アリストテレスのカタルシス論

ベートーヴェンのピアノソナタ第1番


2003.12.29

 

今年の春頃、潮出版社版のゲーテ全集が新装普及版で出ていたのが気になっていた。
このなかの14巻の色彩論・植物学・動物学・地質学・気象学などをテーマにした
自然学関連のものをあつめたものは、以前の版で持っていたが、
ゲーテの自然科学関係のものでまとまって読めるのは、
色彩論を除けば、冨山房百科文庫の「自然と象徴」くらいだろうか。
 
自然学関係以外のゲーテの作品も気になっていたところ、
一ヶ月ほど前、古書店で昭和35年頃に刊行された
人文書院版のゲーテ全集の幾冊かが1冊300円でワゴンセールされていた。
ちょっと古びてはいるが立派な全集なので、
そのなかから「詩と真実」、「イタリアの旅」、
「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」、「箴言と省察tec」を購入。
現在のところ、先日来「イタリアの旅」などを面白く読んだところ。
火山の観察なども、ゲーテの烈しいまでの好奇心が伝わってきたりする。
そして昨日は、正月休み用に潮出版社版新装普及版の
「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」を昨日購入する。
この「遍歴時代」はかなり異色の作品のようである。
 
「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」は、
学生時代に一応は読んだことがあるのだけれど、
面白いと思った記憶はまるで残っていない。
もちろんどんな話なのかもまるで記憶にないが、
やはりそれをとらえる視点が変わると印象がまるで変わって感じられる。
 
さて、その人文書院版の「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」の
「解説」に「教養小説」と「教養」について書かれてあった。
学生時代には、この「教養小説」やら「教養」やらというのが
ひどく偽善的に感じられていたのだけれど・・・。
 
        教養小説ーーさて、「修業時代」の青年主人公は、初めから一見目的を
        持たない無性格者のように、広い人生を手さぐり歩いて行く、彼はこと
        に触れ迷いもすれば誤りもし、人に接し愛しもすれば憎みもする素朴な
        青年である。しかし彼は、根本的には名誉や社会的地位や金銭を求める
        のではなく、人生そのもの、全人間を求める。騾馬を探しに出かけて王
        国を発見したキシの子サウルのように、ウィルヘルムは演劇を求めて人
        生智を学ぶのである。こういう風に、主人公の人間的発展のあとを辿る
        小説は、ドイツの特産物で、普通に「教養小説」Bildungsromanまた
        は「発展小説」Entwicklungsromanといわれている。
        ブランデスは「『教養小説』の根底をなし、それを一貫するテーマは、
        従来世界のどんな小説にも取り扱われることのなかったものである。そ
        れは先の時代にも知られず、現代ではほとんど縁遠いものとなった概念、
        すなわち『教養』である」といっている。ルソーの『エミール』は教育
        を対象としている。人はいつの時代にもそういう教育を信じてきた。し
        かし十八世紀末にゲーテが把握した意味での教養は、それとは本質的に
        異なったもので、この場合の教養とは、自己発展、つまり自己の精神的
        天賦と力の正しい発展を意味する。
 
やはり、教育にひもつきになっている「教養」というのは
なんだか胡散臭いもので、それはつまるところ、
どこかで「名誉や社会的地位や金銭」と結びついているような気がしてしまうが、
ゲーテの意図した意味での「教養」は、「自己発展」のことである、
ということがようやく少しわかりかけてきたように思う。
その「自己発展」は、シュタイナーのいう「魂の試練」を通じた「発展」
であるといっていいのかもしれない。
 
シュタイナーは「ギリシアの神話と秘儀」の第10講
(『神々との出会い』(筑摩書房)所収)で、
アリストテレスの演劇に関するカタルシス論に言及している。
(ちなみに、アリストテレスのカタルシス論は、「詩学」に収められている。)
 
        アリストテレスは、ギリシア演劇が勇敢さによる恐怖心の克服、限りない
        同情における自己愛の克服という偉大な心の営みを小規模に舞台上で再現
        していることを、伝承として知っていました。演劇が大切な教育手段であ
        ったことをよく知っていたアリストテレスは、悲劇を次のように定義づけ
        ました。ーー
        「悲劇は互いに関連し合う諸事件を表現するのでなければならない。それ
        らの事件は観る者の魂に恐怖と同情を喚起することで、魂を浄化するのに
        ふさわしくなければならない」。
        この偉大な真理は、時と共に人びとの心から失われ、忘れられていきまし
        た。そして十八世紀から十九世紀にかけて、アリストテレスがふたたび研
        究されるようになったとき、アリストテレスのカタルシス論をめぐって、
        図書館を充たすほどの研究書が出版されました。しかし、アリストテレス
        の考え方を知るためには、演劇が古代の秘儀から生じたのだということが
        理解できなければなりません。ところが学識は、ごく表面的な部分に触れ
        ることしかできずにいます。
        (P277-278)
 
興味深いことに、「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」の「初稿」は
「ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命」で、
「演劇」が重要なモチーフになっている。
 
さて、このところぼくなりのベートーヴェン・エポックが続いているのだが、
ベートーヴェン(1770-1827)の創作期は、便宜的ではあるのかもしれないが、
7期に区分されてとらえることができるという。
 
1.学習期・ボン時代      1782-1792
2.ウィーン台頭期       1793-1800
3.実験的ソナタ期       1800-1802
4.ドラマ的ソナタ期      1802-1808
5.カンタービレ期         1808-1813
6.ロマン主義接近期      1814-1816
7.孤高的様式期            1817-1826
 
ベートーヴェンにももちろん「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」ならぬ
「ベートーヴェンの修業時代」があったわけで、その音楽を
ベートーヴェンの「自己発展」という観点できいてみることもできる。
 
それで、手元にあるベートーヴェンのCDのなかで
その初期の頃の作品を探してみると、
ピアノソナタ第1番作品2の1というのがあった。
ヴェデルニコフのピアノ。
第29番(ハンマークラヴィーア)も収められていて、
何度きいても新鮮に聞こえる素晴らしい演奏である(COCO-78242)。
 
ピアノソナタの第1番から第3番までの3曲は、作品2として、
1793年から1795年の頃に書かれたものだということである。
上記の区分でいえば「ウィーン台頭期」になる。
この第1番は、作品2のソナタのなかでは
いちばん悲劇的な情緒をもった曲で、
その後に展開してくるベートーヴェンらしさが
すでにかなりでているように思える。
「原植物」ではないが「原ベートーヴェン」のようなもののひとつを
そこにききとることもできるのかもしれない。
 
 

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