風日誌


シンボル/西脇順三郎

武満徹「フォリオス」


2003.12.21

 

ルドルフ・シュタイナー『内的霊的衝動の写しとしての美術史』第3講(yucca訳)の
最後のほうに、シュタイナーが質問にこう答えるところがある。
そこで引合にだされている図像(イコン)及び象徴(シンボル)について注目してみたい。
 
        途中質問:この図像にはもっと別のより深い意味があるのでしょうか?
        より深い意味ですか? なぜこれがじゅうぶん深くないと言えるのでしょう。
        まさしく空間のなかの光の魔術的ー秘密に満ちたものを研究してみようとす
        るなら、これは、これを象徴的ー神秘的なやりかたで解釈など始めるよりも
        深い意味なのです。それは芸術的なものからそらせてしまいます、ですから、
        例えば上には星座版があるとか、ありとあらゆるものがそこにあるといった
        ことのなかに、さらに深い意味で追求されうることを、時代色といったもの
        からもっと想定してみる方がよいのです。このようなものを組み合わせると
        いうのはまさに当時としては自然なことでした。ですから象徴化する[symbolisieren]
        よりも、芸術的なものにとどまり続ける方がよいのです。この図像のなかに
        は大きなユーモア(フモール[Humor])があるとさえ私は思います、つまり、
        当然ながらいくらか素人じみたしかたで、この図像のタイトルに、ユーモア
        のある形で《黒い色合い[Schwarzfaerbung]》を表現させたいのだ、と。
        --実際デューラーにとって、《メランコリー》という言葉で問題なのは黒い
        色合いでした。この言葉はひそかに--申しましたように素人的、ディレッタ
        ント的に--《黒い色合い》を意味している可能性があるのであって、デュー
        ラーがたとえば何らかの意味深な象徴的なものを表現したかったというので
        はありません。彼にとって真に重要なのは、芸術的な形成、光形成の可塑性
        [Plastizitaet]なのです。ですから、この光の形成、そしてあらゆる象徴的
        解釈を提供すること、これを深くないというふうに把握されないようお願い
        したいのです。世界は、それがこのような光の作用を有しているということ
        によって深いのであり、光の作用はたいていの場合、まさに《メランコリー》
        と題されているこの図像のなかにありとあらゆる神秘的なものを探すよりも
        深いのです。
 
少し前に若桑みどりの「イメージを読む」を引合にだしてみたことがあったが、
そこで中心になっている図層学(イコノロジー)や図像解釈学(イコノロジー)が
ともすれば陥ってしまうものには注意が必要だといえるかもしれない。
「絵画に描かれた多くの思想や意味」を「読み解く」という場合、
上記の引用部分でも述べられているような観点は見落とされてしまうからだ。
その「読み解」かれるものはいったい何なのだろうか。
このAはをX象徴している・・・そうした「謎解き」のための「謎解き」。
 
ちょうど西脇順三郎の「えてるにたす」という詩を読んでいたら
「シムボル」についてこう表現されていたところがあった。
 
        シムボルはさびしい
        言葉はシムボルだ
        言葉を使うと
        脳髄がシムボル色になって
        永遠の方へかたむく
        シムボルのない季節にもどろう
        こわれたガラスのくもりで
        考えなければならない
        コンクリートのかけらの中で
        秋のような女の顔をみつけな
        ければならない季節へ
        存在はみな反射のゆらめきの
        世界へ
 
人は「意味」に縛られてしまうところがある。
「いったいそれは何を意味しているのだろうか?」という問い。
その問いかけるという営為は大切なことなのだけれど、
たとえば精神分析で「それは深層心理においてはXを意味している」
とかいうような「分析」が中心になってしまうと
そこに持ち込まれる「意味」はまるでマーヤが実体化したものとして
人を雁字搦めにしてしまうところもあるように思うのだ。
 
音楽をきくときにも、そこに「意味」を過剰に持ち込みすぎると
音楽をきくことがまるで自分をどこかの箱の中に
閉じ込めてしまうようなことにもなってしまいかねない。
 
メッセージソングや「意味」に塗り固められたPOPSの歌詞、
それからあまりにも記号化されすぎ、
ただそれらが「編集」されてつくられたような音楽は
ときにまるで暴力のようにも響いてきたりする。
それら「消費」される音楽はまるでファーストフードのように
世の中に蔓延し垂れ流されるのだ。
観光地に過剰サービスのように流されているBGMしかり。
それらは人を決して自由にさせない。
ヒーリングミュージックだとかいうのも
往々にして人を癒やすよりもむしろ人を閉じ込めるために効力があったりする。
そのおきまりの「癒やし」のパターン。
 
それらに疲れたときにぼくがききたくなるのは
たとえば武満徹の音楽だったりする。
今日はなにをきいてみようか。
武満徹のもっとも愛する楽器のひとつだったかもしれないギターのための曲。
「フォリオス」を庄村清志のギターできいてみる。
「フォリオス」には短い3つの曲があって
その3曲目にはバッハのマタイ受難曲からの引用があったりもする。
 
 

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