ちょっとばかり仕事で必要になって 『年収300万円時代を生き抜く経済学』が話題になった 森永卓郎の著書をいくつか読んでいる。 この手の本は自分から進んではあまり読まないけれど 読んでみればそれなりに読めてしまうものだし、 とくになぜかほとんど同い年というのもあるかもしれないが、 森永卓郎の視点にはかなり親近感を覚える。 とはいえお金のことについてほとんど疎いぼくには、 そこで述べられている経済の見方は理解できるとしても、 そして仕事上はさまざまに蘊蓄も必要だったりするし 個人的にも切実ではないというのではないものの その手のことはどうも面倒くさくていけない。 経済の話はともかく、森永卓郎の視点の出発点は たとえばこんなところにあるようである。 自分がなにをやりたいかを見つけることって、じつは難しい かもしれません。けれども、そんなに難しく考えずに、好きな ことをやってみればいい。 ・・・ そう、たとえば子どものころに立ち返ってみれば、みんな好 きなものがあったはずです。それが、大人になって我慢をする ことを覚えさせられてしまって、「感動の窓」をふさいでしま まった。 まず、「お金」や「経済」のことを考えるより前に、自分自 身の「幸せ」について、リラックスして考えてみる必要がある のではないでしょうか。 (『デフレとお金と経済の話』講談社+α文庫) そういえば、インターネットに移行する前、 パソコン通信で会議室をしていたころ、 いっしょのフォーラムにたまたまいた方々の多くが なぜか「自分が何をやりたいかわからない」といっていて とても不思議に思ったことを覚えている。 もちろんつきつめてそれを明確にしようとするのはむずかしいけれど 「自分が何をやりたいかわからない」と自問自答するというよりも それを他の人に言い続けながらパソ通をやっていたりする その状態がいったいどういうものなのかわからなかったのだ。 ひょっとしたら誰かにそれを教えてもらおうとしていたか パソ通でうじゃうじゃやっているうちに それが見つかるとか思っていたのかもしれない。 でも、要は何に感動できるのか、驚けるのかということで、 「感動の窓」がふさがってしまっているのが そうしたことの原因になっていて それはやはり「窓」を開けてみるしかないわけだ。 ぼくがなぜシュタイナーを読んでいるのかも はやいはなし、これほど「感動」できるものはないからなのである。 で、なぜ「経済」やら「政治」やらのことに (いちおうはあれこれ理解する必要のあることは 調べたり考えたりはするものの) 積極的になれないかというと、 やはりぼくにとっては「感動」とはほど遠いからなのである。 まあ、趣味の問題にすぎないのだろうけれど。 さて、今日は野上彰作詩・団伊玖磨作曲の「子守歌」を 米良美一の声(カウンターテナー)でひさしぶりにきいてみたい。 (「母の唄/日本歌曲集」KICC202) この「子守歌」は、こんなふうにはじまる。 「むかしむかしよ 北のはて オーロラの火の 燃えている 雪のお城が ありました」 「それから母さん どうしたの」 「だまってお聞きよ いい話 おはなしきいて ねんねんよ」 じつはこの唄をはじめて知ったのはyuccaからで。 いい唄だなあと思っていたのが 米良美一のCDのなかに収められていたことから これがイメージ的に定番になったのである。 ほんとうにこの唄をきくとあたたかい気持ちになる。 「母さん」というのはぼくには今はどうでもいいのだけれど、 「子守歌」は感情の蓋をひらかせるものがあるのかもしれない。 「子守歌」で「感動の窓」を開けるというのはなずないだろうけれど 「感動の窓」にある感情の蓋をゆるめるためにはいいのかもしれない。 でもマザコン気味の人はだたでさえそうしたものが過剰なのだろうから ちょっと違うのかもしれないけれど(^^;)。 このCDがでたころはまだ米良美一はほとんど無名で BCJのCDで登場したのを知った頃のことだった。 米良美一はこの頃がいちばんよかったのかもしれない。 この手のCDを買うのはちょっとはずかしかったけれど のCDのおかげで日本歌曲への親近感がでてきたところもある。 そういえば、夏川りみの「ファムレウタ〜子守歌〜」 という新譜がでていたのを先日きいてみた。 ちょっと声がクリアすぎて疲れてしまう子守歌だし 編曲もつくりすぎのような気はするけれど・・・。 |
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