今日の朝日新聞の「評論・エッセー/文藝21」の 長田弘「同時代人モンテーニュ」より。 モンテーニュに付き合うには、性急な結論をもとめてもむだだ。 「哲学には結論といったものがあるかもしれないが、人生には 結論などはない」。「耳を傾けつつ、一緒に歩いて行けばいい のである」。モンテーニュの生涯を追って『ミシェル城館の人』 (全三巻、集英社)を著わして世を去った作家の堀田善衛は、 そう言い残しました。 このところモンテーニュに関する新しい本が幾冊か書店にさりげなく並んでいる。 宮下志朗編訳『モンテーニュ、エセー抄』、保苅瑞穂『モンテーニュ私記』。 ぼくがモンテーニュにまとまったかたちではじめてふれたのは 上記引用にもある堀田善衛の『ミシェル城館の人』。 烈しい内乱のなかでたんたん生きて書いたルネサンス人モンテーニュの 生涯を追いながらエセーからの言葉が紹介されている。 その第三巻の最後に近いところで引用されているエセーにはこうある。 世間の人はつねに正面を見る。私は自分の内に目を向け、そこに 据えつけて、押さえておく。他の人々は自分の前を見詰める。私 は私の内部を見詰める。私は私にしか用がない。絶えず私を考え、 私を調べ、私を味わう。他の人々は、たとえ巧者であるにしても、 つねに自身以外のところへ行き、つねに前に進むが、私は私自身 のなかを転げてまわる。 よくあることだけれど、 「家人たちは、彼が思索をし、その思索を書き綴ることにも、 彼の著作そのものにも、三文の値打ちも認めていなかった」。 ・・・ 「<時間の空費>であると彼の家族は言ったかもしれない」。 人は日々の生活のなかで多く「結論」を求めている。 きわめて具体的な「結論」を。 そしてそうした実際的な「結論」以外の営為は <時間の空費>とみなされる。 そうした「結論」は必要なものであるのかもしれないが、 「結論」だけのために生きていると 「生」そのものが抜け落ちていくことになる。 「私自身のなかを転げてまわる」ことさえなく。 今日は、ひさしぶりにキース・ジャレットの インプロヴィゼーションアルバムをきいてみることにしたい。 いうまでもなくもっとも代表的なのは「ケルン・コンサート」。 ぼくもいちばん最初にその白いジャケットの2枚組のレコードを 擦り切れるまで(CD以降しか知らない人はすでにこの言葉は死語だが) 繰り返しきいたことを今でも覚えている。 その後、発売される「○○○コンサート」という インプロヴィゼーションアルバムをその都度楽しみにしてきいた。 今日ひさしぶりにきいてみることにしたのは 1991年の「ウィーン・コンサート」。 その前の1998年の「パリ・コンサート」も美しいが この「ウィーン・コンサート」をきくととても静かに綴られはじめる 「エセー」のような響きを感じて好きだ。 ライナーノートには、「パリ・コンサート」と「ウィーン・コンサート」の間に キースはバッハの「平均律」の第2集、ショスタコの「前奏曲とフーガ」なども 録音されていて、また「ケルン・コンサート」の採録楽譜も出版されたとある。 キースはその楽譜を“a picture of an improvisation”と表現している。 こうしたインプロヴィゼーションは「結論」のための音楽ではないのだろう。 まさにプロセスとしての音楽。 音楽の原像のようなものがそこには響いている。 そして、「耳を傾けつつ、一緒に歩いて行けばいいのである」。 |
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