風日誌


「結論」のなさとしてのモンテーニュ

キース・ジャレット「ウィーン・コンサート」


2003.12.4

 

今日の朝日新聞の「評論・エッセー/文藝21」の
長田弘「同時代人モンテーニュ」より。
 
        モンテーニュに付き合うには、性急な結論をもとめてもむだだ。
        「哲学には結論といったものがあるかもしれないが、人生には
        結論などはない」。「耳を傾けつつ、一緒に歩いて行けばいい
        のである」。モンテーニュの生涯を追って『ミシェル城館の人』
        (全三巻、集英社)を著わして世を去った作家の堀田善衛は、
        そう言い残しました。
 
このところモンテーニュに関する新しい本が幾冊か書店にさりげなく並んでいる。
宮下志朗編訳『モンテーニュ、エセー抄』、保苅瑞穂『モンテーニュ私記』。
ぼくがモンテーニュにまとまったかたちではじめてふれたのは
上記引用にもある堀田善衛の『ミシェル城館の人』。
烈しい内乱のなかでたんたん生きて書いたルネサンス人モンテーニュの
生涯を追いながらエセーからの言葉が紹介されている。
その第三巻の最後に近いところで引用されているエセーにはこうある。
 
        世間の人はつねに正面を見る。私は自分の内に目を向け、そこに
        据えつけて、押さえておく。他の人々は自分の前を見詰める。私
        は私の内部を見詰める。私は私にしか用がない。絶えず私を考え、
        私を調べ、私を味わう。他の人々は、たとえ巧者であるにしても、
        つねに自身以外のところへ行き、つねに前に進むが、私は私自身
        のなかを転げてまわる。
 
よくあることだけれど、
「家人たちは、彼が思索をし、その思索を書き綴ることにも、
彼の著作そのものにも、三文の値打ちも認めていなかった」。
・・・
「<時間の空費>であると彼の家族は言ったかもしれない」。
 
人は日々の生活のなかで多く「結論」を求めている。
きわめて具体的な「結論」を。
そしてそうした実際的な「結論」以外の営為は
<時間の空費>とみなされる。
そうした「結論」は必要なものであるのかもしれないが、
「結論」だけのために生きていると
「生」そのものが抜け落ちていくことになる。
「私自身のなかを転げてまわる」ことさえなく。
 
今日は、ひさしぶりにキース・ジャレットの
インプロヴィゼーションアルバムをきいてみることにしたい。
いうまでもなくもっとも代表的なのは「ケルン・コンサート」。
ぼくもいちばん最初にその白いジャケットの2枚組のレコードを
擦り切れるまで(CD以降しか知らない人はすでにこの言葉は死語だが)
繰り返しきいたことを今でも覚えている。
その後、発売される「○○○コンサート」という
インプロヴィゼーションアルバムをその都度楽しみにしてきいた。
 
今日ひさしぶりにきいてみることにしたのは
1991年の「ウィーン・コンサート」。
その前の1998年の「パリ・コンサート」も美しいが
この「ウィーン・コンサート」をきくととても静かに綴られはじめる
「エセー」のような響きを感じて好きだ。
ライナーノートには、「パリ・コンサート」と「ウィーン・コンサート」の間に
キースはバッハの「平均律」の第2集、ショスタコの「前奏曲とフーガ」なども
録音されていて、また「ケルン・コンサート」の採録楽譜も出版されたとある。
キースはその楽譜を“a picture of an improvisation”と表現している。
 
こうしたインプロヴィゼーションは「結論」のための音楽ではないのだろう。
まさにプロセスとしての音楽。
音楽の原像のようなものがそこには響いている。
そして、「耳を傾けつつ、一緒に歩いて行けばいいのである」。
 
 

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