風日誌


中沢新一『聖霊の王』

ベートーヴェン『ディアベリ変奏曲』


2003.11.30

 

中沢新一の新刊『聖霊の王』(講談社)に興奮する!
 
柳田国男の『石神問答』における「石の神」。
その神に、金春禅竹の『明宿集』をガイドにしながら迫っていく。
「日本列島にまだ国家もなく神社もなく
神々の体系すら存在しなかった時代の精神の息吹を伝える、
『古層の神』」である「宿神(シャグジ)」。
さらに、金春禅竹の「六輪一露」の猿楽芸能宇宙論のスリリングな論考!
「日本的」な精神の構造の根源にまで迫っていこうとする熱を感じる。
 
        芸術にせよ、哲学にせよ、政治的思考にせよ、あらゆる活動の背後に
        「後戸」の空間があると理解してみると、いわゆる「日本的」な精神
        の構造が、異質な二種のトポロジー並列的な共存としてできあがって
        いることに、気づかされる。背後にはクラインの壺状のもの、その前
        面には空虚な中心をもつトーラス状のもの。背後の壺が振動をおこさ
        なければ、その前に立つトーラス状をしたものは、しだいに元気を失
        っていく。空虚な中心のところに、どんなに威力ある神仏や天皇を据
        えたとしても、背後の薄暗い空間を烈しく震わす壺の振動が加えられ
        なければ、この列島のものはたとえ権力でさえ、威力を発揮させるこ
        とは不可能だったのだ。
        猿楽の思想を凝縮し、それをあるときには神話学者として(『明宿集』
        を書いているとき)、あるときはトポロジストとして(「六輪一露」
        説が醸成されているとき)表現した金春禅竹の仕事をとおして、私た
        ちはこれまで周到に隠されてきた、この列島の文化の秘密の領域に踏
        み込んでしまったようだが、さて、ここから現代を生きている私たち
        にとっての、本物の問いがはじまる。
        (P252-253)
 
ところで、中沢新一はここでもいわゆる縄文という石器時代における文化の基層というか、
現代では見えなくなってしまっているものの「背後」、根源にあるものを
なんとかして私たちに気づかせようと、探求しつづけているように見える。
それはいわゆるシャーマニズム的なものでもあるのだけれど、
おそらく中沢新一ははるかな高みでもあり根源でもあるものを垣間見ることで
現代にはそれらが失われてしまいかけていることに気づかせ
なんとかその世界を現代及びこれからの展開していくであろう世界に
リンクさせようとし続けているのだろう。
 
その営為は常にスリリングでぼくを興奮させるものでもあるのだが、
過去に向かえば向かうほど見えてくるものへと
ともすれば逆行してしまいかねないところがあるのを感じることがある。
シュタイナーの精神科学的営為と
どこかでねじれの位置にあるかもしれないのも
おそらくはその点がポイントになっているのかもしれない。
 
シュタイナーの精神科学には「キリスト衝動」が深く関係していて
その衝動はある意味で過去の遙かな高みを一度失うことことから
あらたな「革袋」にいれるということが基本にある。
たとえば背教者ユリアヌスがギリシアやローマの文化に比した
キリスト教及びキリスト教徒に対して抱いたように
過去の根源的なものに目を奪われすぎてしまうと
その衝動は得にくくなってしまうのかもしれない。
むずかしいところである。
 
芸術的なものにしても、シュタイナーの深いポエジーを内包した宇宙論は別として
人智学的なさまざまはまだその深みを持てないでいるように見える。
オイリュトミーを高次の芸術だといふうに理解されている向きもあるかもしれないが
それは彫刻が低次で絵画がそれよりも高次でさらに音楽、詩、オイリュトミー、
というような階層があるわけではなく、
それぞれにそれぞれの表現形式があるということにすぎないだろう。
そして彫刻、絵画、音楽、詩のさまざまな深まり、展開に比べて
オイリュトミーはまだそのイロハがつくられている段階なのだろうと
ぼくは理解していたりもする。
しかもそれが展開していくためには、
その他の表現形式に対する深い造詣が求められるはずである。
シュタイナーにはおそらくそれが理念の展開として確かに見えていたのかもしれない。
 
しかし、中沢新一が金春禅竹の猿楽論などで見ることができたような
日本の基層などに深く根差した芸術などについても知るにつけ、
そうした視点をどこかで精神科学的なものと
リンクさせていきたいという深い衝動をおぼえる。
「日本」や「日本人」「日本的」ということが
ナショナリズム的な言動として使われることも多くなっているが、
それらは多くとても抽象的なファナティズムに傾斜してしまいがちだけれど、
今回、中沢新一が『聖霊の王』でもアプローチしているようなこともふくめ
そのじっさいに踏み込んでいこうとするならば
それは決して抽象的なもの、ファナティックなものには
決してなりようがないものなのだろうと思う。
 
さて、今日の音楽は、昨日のバッハの『ゴルトベルク変奏曲』に続いて、
ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』をピーター・ゼルキンのピアノで。
これは、つい先頃(2003.9.25)、1979年演奏のものが
廉価版で発売されたばかり(BVCC35122)。
 
「変奏曲」というのは面白い。
その面白さがわかったのはそう昔のことではないのだけれど、
今回の中沢新一の新刊にしても、
中沢新一が以前から追い続けてきたテーマが
さまざまな変奏として奏でられたものとして読むことができるだろう。
そういう読み方をしてみることで見えてくるものがある。
けれど多く著作をものしている方が、
ほとんど繰り返しだけの金太郎飴になってしまっているケースがよく見られる。
変奏曲というのはただの金太郎飴ではやはり面白くないのである。
 
そういえば吉田秀和が『響きと鏡』に収められている
「多産の喜び」というエッセイで
「日本のジャーナリズムには、同じ人物に同じような題目の原稿を、
何度も注文する傾向が強い」と書かれていたのを思い出した。
テレビでもそうだけれど、そういう傾向はちょっとうんざりするところがあるが
「売れる」ものを求めてしまうと、音楽でもそうだけれど、
どうしてもそうした傾向がでてしまうのかもしれない。
 

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