風日誌


古今伝授・宗祇

『ゴルトベルク変奏曲』(PeterSerkin)


2003.1129

 

ぼくはあまり教養のあるほうではなく
学校でもあまり勉強しなかったけれど
だからこそ常識的な知識とかには無縁なので
そのつどいつも新鮮な気持ちで驚くことができるのかもしれない。
ひょっとしたら常識からみればとんでもない受け入れ方なのかもしれないけれど。
 
先日出会えた新しいテーマは「古今伝授」。
藤原定家が父子相伝で始め、
東常縁が祖となって師弟相伝として宗祇に伝えていった歌道の秘伝。
細川幽斎が石田三成方の大軍に攻められながらも
細川幽斎が死んでしまうと古今伝授の相伝が断絶するのを憂え
勅命がだされることで包囲がとかれることになり
それが関ヶ原の戦いの直前のことで
その行く末にも少なからぬ影響を与えたという話も興味深い。
 
その話を読んだのは、友常貴仁の新刊『日本の「ち・から」』(三五館)で、
ほぼ同時に桑田忠親『日本の芸道六種』(中公新書)の
「歌道」のところで「古今伝授」の話がでていた。
さらにその直前に「宗祇」という名前が古書店で目にとまり
小西甚一『宗祇』(日本詩人選16/筑摩書房)を
読み始めていたところだった。
ほとんど「宗祇ってたしか連歌の人だったか・な?」程度しか
知らなかったのだけれど、
知らないということはまさに幸いである。
 
ここ数ヶ月少しずつみている
レオナルドやミケランジェロについてのあれこれも
知らないがゆえにほんとうに新鮮に受け入れることができる。
なまじな教養があったりしたらこうはいかないだろう・・・
とかいうのはあまり自慢にはならないかもしれないけれど、
知った気になっていたり関心さえもてないでいるよりは
ずっと豊かになれる気がするし
そこから生命力をもらうことができる。
 
音楽でも同じ。
たとえば、ぼくがグレングールドのことをはじめて知ったのは、
学生時代にyuccaからその演奏による
J.S.バッハの『ゴルトベルク変奏曲』のテープをもらったときなのだけれど、
いわゆるクラシックとかいうジャンルに対して
ほとんどまるっきりの無知をさらけだしていたぼくには
それが驚くほど新鮮だったのをまるで昨日のことのように覚えている。
それからグレングールドの演奏するバッハをどれだけきいたことか。
『イギリス組曲』に『フランス組曲』、
『トッカータ』、『パルティータ』、『平均律』・・・。
グレングールドに限らずそれらの曲の新鮮さ、感動は
いまでもまったく消えることがない。
yuccaもそれらの曲はよく弾いていて
耳を傾けているといつも初めて聴くかのような新鮮さが甦ってくる。
 
ところで今日のBGMは、その『ゴルトベルク変奏曲』を
ピーター・ゼルキンの演奏できいてみることにしたい。
ピーター・ゼルキンは17歳のときのレコードデビューを
その『ゴルトベルク変奏曲』で飾ったということだが
今回はその演奏ではなくその30年近く後の1994年の録音のもの。
ピーター・ゼルキンの演奏はぼくには
武満徹やメシアンの演奏のイメージのほうが強いけれど、
このバッハの演奏も知的な深みのなかの鉱脈のなかに
抑えた感情が結晶のようにきらめいていて素晴らしい。
これからピーター・ゼルキンの演奏をチェックしてみることにしたい。
 
ぼくはおそらくずっと教養のないままだろうけれど
こうしていつもはじめてのような新鮮さで
さまざまなものを受けとめることができれば
こうした教養のなさもまた輝ける無知だともいえるのかもしれない。
 

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