風日誌


偶像崇拝

上原まり「平家物語」


2003.11.28

 

沢庵禅師の遺戒には、
禅師号を授けるな、位牌を祀るな、
死ねば火葬をせず
野外に穴を掘って埋めて
その場所をだれにも知られぬようにし
だれも詣でぬように・・・
というような内容がある。
親鸞も死後は死体を鴨川に捨てよといい、
弟子などないという。
 
だが、なぜ沢庵の墓があるのか。
親鸞は葬式仏教の祖のようになってしまうのか。
シュタイナーも死後は火葬にして
その灰を海か川にでも撒くようにいっていたそうだけれど
その遺体がゲーテアヌムにあるそうな。
だれがなんのためにそうしてしまうのだろう。
 
偶像をつくりたがる傾向には、よくよく注意深くあらねばならない。
ある意味でイスラムの偶像崇拝の徹底した禁止に
学ぶ必要があるのかもしれない。
 
最近よく思うのは、イスラムの役割のことである。
かつてゴンディシャプール衝動が起こった際、
イスラム教が起こりその衝動によって
おそらくはそのアーリマン的なものが抑制された。
 
現代においてさまざまなテロが起こっている。
テロそのものは悲しむべきことだが、
もしまったくイスラムのそうした抵抗がなかったならば、
世界はいったいこのままどうなってしまうのかを考えると
そちらのほうもかなり背筋が寒くなってしまう。
ある意味でイスラムはアーリマン衝動の供犠なのかもしれない。
アーリマン衝動をルシファー衝動で中和しようとしている・・・。
 
今日は、上原まりの「平家物語」(VICG-5)をきいてみることにしたい。
 
琵琶の音に、響く声。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・
ただ春の世の夢の如し・・・
猛きものも遂には滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ・・・
 
静かな夜、暗いなかでこれをきくと
なかなかに迫力がある。
けっこうぞくぞくしてくるのだけれど、
ときおりこうした情緒というのを求める自分がどこかにいる。
 
アメリカという国も
どこかこの「猛きものも遂には滅びぬ」の命運を
ほのかに漂わせてきているのかもしれないと感じたりもする。
日本も、かつてのアラビア文明の中心であったバグダッドへの
派遣がどうのこうのといっているときではないだろうに・・・。
 

 ■「風日誌」メニューに戻る
 ■「風遊戯」メニューに戻る
 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る