沢庵禅師の遺戒には、 禅師号を授けるな、位牌を祀るな、 死ねば火葬をせず 野外に穴を掘って埋めて その場所をだれにも知られぬようにし だれも詣でぬように・・・ というような内容がある。 親鸞も死後は死体を鴨川に捨てよといい、 弟子などないという。 だが、なぜ沢庵の墓があるのか。 親鸞は葬式仏教の祖のようになってしまうのか。 シュタイナーも死後は火葬にして その灰を海か川にでも撒くようにいっていたそうだけれど その遺体がゲーテアヌムにあるそうな。 だれがなんのためにそうしてしまうのだろう。 偶像をつくりたがる傾向には、よくよく注意深くあらねばならない。 ある意味でイスラムの偶像崇拝の徹底した禁止に 学ぶ必要があるのかもしれない。 最近よく思うのは、イスラムの役割のことである。 かつてゴンディシャプール衝動が起こった際、 イスラム教が起こりその衝動によって おそらくはそのアーリマン的なものが抑制された。 現代においてさまざまなテロが起こっている。 テロそのものは悲しむべきことだが、 もしまったくイスラムのそうした抵抗がなかったならば、 世界はいったいこのままどうなってしまうのかを考えると そちらのほうもかなり背筋が寒くなってしまう。 ある意味でイスラムはアーリマン衝動の供犠なのかもしれない。 アーリマン衝動をルシファー衝動で中和しようとしている・・・。 今日は、上原まりの「平家物語」(VICG-5)をきいてみることにしたい。 琵琶の音に、響く声。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・ ただ春の世の夢の如し・・・ 猛きものも遂には滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ・・・ 静かな夜、暗いなかでこれをきくと なかなかに迫力がある。 けっこうぞくぞくしてくるのだけれど、 ときおりこうした情緒というのを求める自分がどこかにいる。 アメリカという国も どこかこの「猛きものも遂には滅びぬ」の命運を ほのかに漂わせてきているのかもしれないと感じたりもする。 日本も、かつてのアラビア文明の中心であったバグダッドへの 派遣がどうのこうのといっているときではないだろうに・・・。 |
■「風日誌」メニューに戻る
■「風遊戯」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る