風日誌


ミケランジェロ

バッハ「音楽の捧げもの」


2003.11.24

 

今日は、ミケランジェロのことを考えて過ごす。
 
ローズマリー・シューダー『ミケランジェロの生涯』(上・下)
(発行/エディションq・発売/クインテッセンス出版 1994年2月・3月発売)
の上巻をようやく読み終えたところ。
この時代の時代状況についても詳しく描き出されている。
 
シュタイナー『内的霊的衝動の写しとしての美術史』(yucca訳)第2講で
述べられているミケランジェロをめぐるユリウス2世などのあれこれについても
ようやくシュタイナーの述べていることに
少しは理解を深めることができたように思う。
分量的には決して多くはなく、駆け足で語られているようだけれども、
この第3講のなかでミケランジェロについて紹介してある内容は
くどくどしい説明よりもミケランジェロの核心に迫っているように思える。
 
        繰り返し繰り返し、ミケランジェロの魂のなかには、ゴルゴタの秘蹟の
        理念が現れてきて、彼はとりわけ強くこう感じたからです、ゴルゴタの
        秘蹟とともに、地上を超えた愛の行為が起こったのだ、ひとつの大いな
        る理想として常に人間の目の前に浮かぼうとするけれども、かけ離れた
        もののなかで人間には到達できず、世界の出来事を見つめる者を悲劇的
        な気分にさせざるを得ないほどの強度で起こったのだ、と。 
 
また、この時代のアレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世などについて
普通の歴史では否定的に語られやすい部分についても
あらためてその意味を考えさせられる。
 
        今日、法王アレクサンデル6世やその息子チェーザレ・ボルジア、あるい
        はユリウス2世を、ぞっとするようなことのように感じるのは、もちろん
        たやすいことなのです、彼らについてはもう偏らず書くことが許されてい
        るからですが、一方その後のもののいくつかを、このような自由をもって
        記述することはまだできないでしょう。けれども当時起こった大きな出来
        事は、これらの法王全部であったもの、つまりサヴォナローラあるいはル
        ターが法王の座についたとしたらきっとあり得なかったであろうものと、
        因果関係にある、ということを同時に知っておかなければなりません。 
 
この2講が訳されて以来、レオナルド、そしてミケランジェロと
少しずつではあるけれどいろいろ調べるようになってきている。
ほんとうにぼくにはわからないことだらけで、勉強不足を痛切に感じてしまう。
 
さて、この『ミケランジェロの生涯』が書かれたのは1962〜1964年の東ドイツ、ベルリン。
1928年イエナ生まれ・ベルリン在住の著者ローズマリー・シューダーには
医師パラケルススに関する著作もあり、国際パラケルスス協会会員でもあるそうである。
 
今日の音楽は、J.S.バッハの「音楽の捧げもの」。
有田正広(フラウト・トラヴェルソ)、寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン)、
若松夏美(バロック・ヴァイオリン、バロック・ヴィオラ)、
中野哲也(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、有田千代子(チェンバロ)の演奏で。
 
「フーガの技法」とともに、この「音楽の捧げもの」は
どこか音楽の彫刻であるようにイメージされるところがある。
ミケランジェロの彫刻はおそらく
ミケランジェロの「芸術の捧げもの」だったのだろう。
 
『ミケランジェロの生涯』で、ミケランジェロが
彫刻に使う大理石の切り出しに関わるところがでてくる。
最近、鉱物採集の折りに、石灰岩が変成し
方解石に、そして大理石となっているところに出かけ、
ハンマーでその大理石を割ったりなどしていたのだけれど、
その折り、山全体が大理石でできているのだ!とイメージして
その不思議な荘厳さのようなものに圧倒されたことがあるのだが、
ミケランジェロはその大理石に埋まっているダビデを掘り出したのだ!
変容した石灰である大理石から。
 
世界は変容する。
そして、その世界の変容は、まさに「私」の変容でもあるのだろう。
変容するためにはいったい何が必要なのだろう。
そして変容した姿はいったいどのようなものなのだろう。
 
 

 ■「風日誌」メニューに戻る
 ■「風遊戯」メニューに戻る
 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る