風日誌


世界はなぜあるのか

ベートーベンとシューベルトの最後の3つのピアノソナタ


2003.11.22

 

世界はなぜあるのか。
その問いに答えるためにぼくは生まれてきたのかもしれない。
世界はなぜなければならないのか。
世界がなければならないのだとしたら
世界は豊かなものでなければならないはずだ。
 
たとえば、四苦八苦というような仏教的な観点からは
その問いに答えることはできないだろう。
苦を無明とし解脱していくことは説けたとしても
なぜ苦があるのかに答えることはできない。
苦がなければならないものだとしたら
それさえも豊かさのひとつでなければならないはずだ。
落ちるひとひらの葉さえも意味深いものであるとすれば
苦が意味深く豊かなものでないはずがない。
 
世界はなぜあるのか、世界の豊かさとは何かを問うために、
ぼくにとっては、アリストテレス、トマス・アクィナス、
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ゲーテ、シェリング、
そしてシュタイナーと辿ることのできる道が重要なものとなる。
 
ヘーゲルよりもなぜシェリングが気になるのか。
シェリングは知の体系的完成をヘーゲルに認めはしたが、
その立場を「消極哲学」と規定し、
その後半生を「積極哲学」のために費やした。
それはヘーゲル哲学ほどの体系性を持ち得なかったが、
おそらくそれは世界そのものへと向かう道だったように見える。
 
そしてシュタイナーがいる。
なぜシュタイナーはゲーテの自然科学論文の校訂から出発したか。
そのことから出発してみる必要があるように思える。
 
世界はなぜあるのか。
なぜなければならないか。
「消極」的にではなく「積極」的に答えようとするために。
 
今日は、ゲーテの同時代人でもあったベートーヴェンの
ピアノソナタ第30〜32番をヴェデルニコフ演奏で聴いてみる。
 
先日、たまたまテレビでピーター・ゼルキンの演奏で
ベートーヴェンのピアノソナタ第30番が演奏されているのをきいて
からだじゅうにふるえがくるような感動を覚え、
ひさしぶりに以前から気に入っていたヴェデルニコフ演奏の
ピアノソナタをききなおしてみたがやはり素晴らしい。
 
ベートーベンの最後のピアノソナタのこの3曲と
シューベルトの最後の3曲のピアノソナタ、第19番〜第21番というのは
ちょっと比類がないほど素晴らしい。
シューベルトのそれは、ぼくのきいたなかでは
内田光子の演奏が気に入っている。
特に最後の第21番は、内田光子が
「死ぬ時に弾いていたい」とさえ語った曲でもある。
 
なぜこれほどの深みのある曲が生み出されたのか不思議でならないのだけれど、
そのことそのものが世界がなぜあるのか、
そしてその豊かさについてのひとつの答えになっているのかもしれない。
 

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