風日誌


表現すること・認識すること

大貫妙子: Library


2003.11.20

 

2大貫妙子のアンソロジーCD「Library」が発売される。
Sugar Babe時代の曲1973年の「いつも通り」から昨年の「note」、
スタジオ・ジブリ配給の「キリクと魔女」のイメージソングまで
CD2枚に全33曲が収められ、大貫妙子による全曲解説もある。
 
ききながら、解説を読みながら考えたこと。
表現するというのはいったい何なのだろう。
1973年から2003年まで30年以上に渡って
「表現」し続けている大貫妙子・・・。
 
現代では、こうした「表現」がマーケットの上で成立していて、
それゆえに「表現」が継続的に可能となっているのだけれど、
たとえばレオナルドが「表現」していた場とは異なった環境にあるとはいえ
そのときのパトロンが大衆的な聴衆になっている違いを除けば
表現の主体と表現の受容者が、
受容の仕方はさまざまであるとしても、存在している。
 
その送り手と受け手にはさまざまなかたちがあって、
受容者というのは、表現の主体の中にも存在したりもして、
「表現」は必ずしも社会的な場が必要だというわけではない。
 
「表現」を仕事にしている場合、
その「表現」をお金にする必要がでてきて、
往々にしてそ「表現」と「お金」が逆転して、
「お金」のために「表現」が引っぱり出されてしまうことがある。
別に「表現」したいわけではなくても、
「表現」したことになっているということがあるのである。
もちろん、「表現」したからといって
必ずしも「お金」になるわけではない。
 
そういう意味では、ぼくは変な仕事をしていて、
広告というのは「自己表現」ではなくて、
クライアントの「表現」をサポートするもので、
ぼくはクライアントがお金を出してくれやすくするために
クライアントがどのような「表現」を望んでいるかを推し量る。
今日も、来週のプレゼンテーションのために、プランをあれこれ考え、
デモテープなどやらをつくっていたりしたのだけれど、
これは「自己表現」したいわけでもなんでもないけれど、
ぼくのある種の指向とスキルはそこに反映してくることになる。
 
ところでぼくは小さい頃から「自己表現」というのは苦手で
なにかを「表現」したいという欲求を感じたことも少ない。
というか、なんらかの外的な場で「表現」しようとあまり思わないのだ。
逆に外的な場で「自己表現」をしようとして
それが仕事になっているという人も多くいる。
芸術的なものに限らず、たとえば教育者だとかいうのも、
ぼくから見れば充分に外的な自己表現者のように見えたりもする。
 
自分はなぜそうした「自己表現」への指向が少ないのか。
表現能力の乏しさという自信のなさというのもあるし、
それを仕事にしてしまうととある種すり切れてしまうのではないか、
というような臆病さもあるだろう。
しかしそれだけでもないようにも思う。
 
自己表現することで生活が成り立っていくのもそれなりにいいだろうし、
自己表現にともなうある種の充足感や名誉感のようなものもあるだろうけれど、
たとえば表現して名が残るとしてもたとえば100年後、1000年後を考えると
名が消えるのも時間の問題だという気もする。
プラトンとかも2500年ほど名が残っているけれど
10000年とか経つともう残ってはいないだろうし。
 
そこで「表現するというのはいったい何なのだろう」が出てくる。
別のことばでいえば、ぼくにとっての「表現」とは
いったいどのようなかたちをとっているのだろうかということ。
 
ぼくにとっていちばん大事なことはなんだろうかと考えてみると、
なにかがわかるということ、ある意味でいえば「認識するということ」
ではないかと思っているのだけれど、
そのことと表現するということとはどんな関係にあるのだろうか。
ひょっとしたら、認識するということは
ある種の創造的表現でもあるのではないかとも思える。
ある人にとって切実である自己表現というのが
ぼくにとってはなにかを認識するということであって、
なにかを認識するためのさまざまな営為というのが
「表現」のバリエーションとしてさまざまなかたちをとりうるのではないか。
 
・・・と、こんなことをつらつらと考えてみた次第。
(長々とすみません(^^;)
 
さて、最初に戻って、大貫妙子の「Library」。
ぼくは最初のugar Babe時代はあまり知らないのだけれど、
気がついてみれば全部とはいえないまでも
かなりのアルバムをききつづけていることになる。
とてもなつかしく、しかもいろんな発見があったりもする。
 
70年代から80年代にかけて
坂本龍一が編曲をかなり担当している。
キーボードが坂本龍一でバスが細野晴臣というのもたくさんある。
それから、ギターはあの大村憲司だったりするのだ。
大村憲司のギター、これがあのギターなんだというのもあらためてわかる。
 
で、今日の曲は、アルバム全部だと多すぎるので、
なかでもっともじーんとくるライブ収録の
「Beautiful Beautiful Songs/歌がうまれてる」
糸井重里の作詞で、「ほぼ日」でも紹介されてたのだけれどまだきいてなかった曲。
そういえば、最近よく「ほぼ日」に大貫妙子が登場する。
このアルバムに収録されている「キリクと魔女」のイメージソングのこともそう。
 
このアルバムをききながら、
大貫妙子がなにを「表現」してきたのか、
なにを「表現」したかったのか、を感じながら、
その不思議さをあれこれと思っている。
 
アルバムのノートの最初にこうある。
 
	時が経たなければわからないこともあります。
	時が経つことで変化するものもあります。
	時とともに消滅してしまうものもあります。
	時とともに旅立ってしまうものもあります。
	時とともに根っこを生やしていくものもあります。
 
ああ、時よ。
汝はなにを「表現」しようとしているのか。
時が生まれたのは、シュタイナーによれば土星紀だという。
それまでは「持続」しかなかった、と。
時のかぎりなき不思議。
 
 

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