水の流れる音をきく。 水はまさに千変万化しながらそのなめらかな姿態を踊らせている。 なぜそんな不思議な水という存在があるのだろう。 水が存在しているというかぎりない不思議。 風が渡る。 なぜ風は渡るのだろうか。 空気、気体という存在の不思議。 その空気は私の体内に入り込みまたでてゆきもするのだ。 私という空気人間。 しかも私は水人間でもあるのだ。 火が燃える。 その炎のゆらめく不思議。 炎というのは目に見えははするが 半ば非物質的な様態のなかで天に昇ろうとするかのようだ。 火はいったいどこに向かってその触手をゆらめかしているのだろう。 火があるという不思議。 そしておそらくは私のなかにもあるであろう その火人間という熱。 私は大地の上を歩く。 なぜ歩ける大地がここにあるのだろう。 ただ上下左右ただよっているだけではなく 歩ける確固とした大地があるのだろう。 そして山があり岩石がさまざまな模様で大地を彩っている。 そして私がこうしてここに存在している。 世界があり私がいるという驚くべき不思議。 おそらくは生まれたときに切実に味わうことができたものが やがて日常と化してしまいがちだった不思議。 それらの不思議をあらためてひとつひとつ 新たな形で取り戻していくこと。 シュタイナーの精神科学的観点にふれ それに触発されながらさまざまを観察していくことは そんな喜びとともにあるように思える。 石ひとつをみることでも そこからかぎりなくひろがっていく不思議。 さて、自分がいまここに存在していて 水や風やの不思議さその美しさのなかにいるときに ききたくなるのがやはり武満徹の音楽。 今日は、十一月のしんと冷えた空気を思い、 「十一月の霧と菊の彼方から/ヴァイオリンとピアノのための」を あらためてきいてみることにしたい。 手元にあるCDでは、フォンテックからでている、 「武満徹作品集/ミュージングゾーンI」に収められていて、 主に弦楽器作品が集められている。 このCDはぼくがはじめて購入した武満徹のCDで、 それ以後もっとも繰り返しきいたCDでもあったりする。 日常のなかですりきれかけているときに 世界と自分の存在の不思議にひらかれた感受性へと 向かおうとするとき、武満徹の音楽がききたくなるときが多い。 どこかに自分の位置を固定させるのではなく 自分のという存在と世界のあいだに 柔軟な関係を取り戻すための触媒とでもいえるだろうか。 |
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