風日誌


一面的な真理の危険性

信時潔 歌曲集


2003.10.31

 

シュタイナーの『マクロコスモスとミクロコスモス』を
毎日自分に刻みつけるように少しずつ読み進めている。
 
この講義は、『神秘学概論』が刊行されたすぐ後に行なわれたもののようで、
この講義が『神秘学概論』や『いかにしてより高次の世界の認識を得るか』を
補足し深化させる内容も含まれていて興味深い。
 
いくらでもふれておきたいところがあるのだけれど
それはまた別の機会にということにして、
今日は以前からコメントしておきたかった部分を少し。
 
        間違った考え方が人間にとって最悪なのではありません。考えが間違って
        いるなら、人生そのものが、それを正してくれます。しかし一面的な真理
        を含む考え方は、はるかに人生を妨害するのです。
        真理が一面的になるのは、「汝自身を知る」ために、ただ自分の一面だけ
        を見ようとするときです。反対側からも見なければならないのです。そう
        すれば、自己認識が絶えざる自己完成への要求となって現われます。
        (P183)
 
この「一面的な真理」というのは要注意で、
世の中は、そういう「一面的な真理」に満ちていて、
その「正しさ」のなかに飲み込まれてしまうと、
いわば「悪人正機」の可能性などもなくなってしまう。
「自分は正しい」という思い込みほどこわいものはないのである。
 
「中なる道」ということがそこでも重要になる。
あるベクトルがあったとすると、常にその逆向きのベクトルを
常にそこに置く必要があるのである。
 
昨日は丸本淑生『図解 豊かさの栄養学』(新潮文庫)という
少し前にでた本を古書店で見つけたので読んで大変参考になった。
現代人の食生活の危険な側面について警鐘を発する意味でも
理解しておきたいことがわかりやすくていねいに書かれてある。
 
しかしこうしたとても好感の持てる内容のものでも、
それは「一面的な真理」であるということがわからないと、
きわめて現代的な物質的な説明だけで
なにかがわかるということになってしまいかねない。
そこに述べられているのはその時点での
物質的な側面からの説明であるということを前提にしておいて
その内容を生かす必要があるのではないだろうか。
 
さて、上記の内容とはあまり関係ないが、
今日は、信時潔の歌曲集をBGMにしてみたい。
 
手元に1995年に没後30年&戦後50年特別企画として
発売された「信時潔 歌曲集」VICC-5052がある。
先日偶然図書館で見つけて借りてきたものなのだけれど、
これを手にするまで信時潔という作曲家のことはまったく知らずにいた。
信時潔(1887〜1965)は、山田耕筰と並んで
日本歌曲のいわば黎明期にすぐれた歌曲を生み出した作曲家で、
きいてみるとかなりすばらしい。
しかし調べてみると演奏されるものは
ごくごく一部の曲しかないようである。
作品に「海ゆかば」という戦争に加担したとされる曲もあり、
そういうことからもとりあげにくい作曲家になったのだろう。
これも一面的な部分だけがクローズアップされるひとつの例かもしれない。
 
この信時潔は、1920年から2年間ドイツに留学、
ベルリンで初めてJ.S.バッハの「ロ短調ミサ曲」にふれて
「天門が開けたような思ひ」になったそうであるが、
そうした体験が後の作曲にも影響しているということである。
今回そのほんの一部の作品をきいただけではあるが、
忘れ去るには惜しい作曲家なのではないだろうか。
 

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