ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
シュタイナーの「マクロコスモスとミクロコスモス」を読みながら、 日本では、マクロコスモスへの道が神道的な方向に、 ミクロコスモスへの道が仏教的な方向に相当するのではないか。 その両方の秘儀が日本という場に導入される必要があったのではないか。 (もっとも実際のところその両者はまさに習合しているのではあるが、 その本来の方向性においてということである) そんなことを考えたりもしたので単なる思いつきでしかないものの、 忘れないうちに少しだけメモしておくことにしたい。 マクロコスモスへの道では、羊飼いたちのように 外界(自然界)に対する敬虔な眼差しが必要とされ、 ミクロコスモスへの道では、マギたちのように 内面への厳しく冷静でくもりない眼差しが必要とされるように思えるのだろうが、 とくに興味深く思ったのは、マクロコスモスへの道である。 昔は、特にヨーロッパの諸地域では、エクスタシーによく似た状態が 生じました。マクロコスモスの秘密に参入すべき人は、エクスタシー によく似た状態に移されました。 (「照応する宇宙」筑摩書房/P139) マクロコスモスへの道では、自我の喪失の危機にさらされるため、 「自我の力」を12人の助手が支えていたという。 この助手たちの中の或る人たちは春の芽生える自然に帰依することで、 内的な体験や感情を特別に強く心に抱く修行を重ねました。…自分だ けの力でが、十分な仕方でそうすることができませんから、北方の秘 儀においては、或る人たちは秋、夏などの他の体験をすべて断念して、 自分の魂のすべての力で芽生える春の自然の特性だけを感情を通して 体験するように修行しました。別の人たちは、夏の生命の営みを、第 三の人たちは秋の生命の営みを、第四の人たちの営みを体験できるよ うに修行を重ねました。季節の移り変わりの体験が、それぞれの人に 割り当てられたのです。(同上/P140-141) 日本の文化においては、たとえば季語にもみられるように、 季節の変化への鋭敏な感受性が培われてきているように思われる。 それをそのまま上記のマクロコスモスへの道に 重ね合わせることはできないだろうが、 自然に帰依しその「内的な体験や感情を特別に強く心に抱く修行」というか、 その季節への感受性を文化において洗練させようとしたところが あるのではないだろうか。 折良く読み進めていた、唐木順三の『日本人の心の歴史(上)』(ちくま学芸文庫)には その季節への感受性のさまざまが紹介されている。 たとえば歌合の盛儀に列した男女の衣装などにおいても、 桜や梅、菖蒲、菊、紅葉など、 「春ならば春、秋ならば秋の景物を、おのが肌につけ」、 「季節感覚を衣装において発揮する」ということが行なわれる。 また、「梅が咲くことが春になったといふこと、梅の花の中に春があること、 花が春をひくこと、梅花一輪が全春を象徴してゐること」になり、 「一葉の落つることにおいて天下の秋を感じ、 蛙の飛び込む音に夏の真昼の静寂を感じ、 塩鯛の歯ぐきに冬の朝の寒さを感じる」ということにもなる。 こうした日本文化などにみられる季節感だけではなく、 さまざまな文化における感受性等は、 かつての秘儀的なありかたが文化的な在り方のなかに とりいられらながら洗練されていったものなのではないか。 そんなことを考えてみた次第。 さて、マクロコスモスへの道としての「エクスタシー」ということがでていたので、 今日のBGMは、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1179)の 『エクスタシーの歌』BVCD-617を挙げてみる。 このアルバムは、セクエンツィア(中世音楽アンサンブル)の演奏で、 1998年のヒルデガルト・フォン・ビンゲン生誕900年に向けて その宗教音楽が紹介されたアルバムの第3弾。 なお、このアルバムは日本では1995年に発売されている。 なお、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンについては 種村季弘の『ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界』(青土社/1994年)がある。 かなり不思議な魅力のある人物である。 |
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