武久源造・鍵盤音楽の領域Vol.1
左近司祥子『謎の哲学者ピュタゴラス』(講談社選書メチエ280)を読んでいる。 ある部分面白くもあるのだけれど、随所で物足りなくなってくるところがあるのは、 それが「現代」の常識的な視点からしか語られないからなのだろう。 とくにこうしたピュタゴラスのような著作などの文献がない人物だと それが際だってしまうことになる。 現代では、四大とかいっても、まともに扱われることはまずないが、 シュタイナーの示唆している視点からそれらをとらえると ギリシア哲学で扱われているさまざまなテーマも まったく異なったとらえ方が可能になることがわかるだけに、 ふつうのそうした哲学史的な内容にふれるとどうも興ざめになってしまう。 シュタイナーはたとえば、ピュタゴラスの「豆」に関する戒律についても、 次のようにとりあげたりもしているが、 もちろん哲学史などでそれがとりあげられるときには、 ただのおかしなタブーのようにしか扱われない。 非常に念入りに、多すぎもせず少なすぎもしない、適量の蛋白質を体に 補給しなくてはなりません。絶対に、正しい量でなくてはなりません。 蛋白質の消化過程は、表象形成における思考活動の経過に相応するから です。実り多い思考を引き起こす活動が、人体下部において蛋白質によ って呼び出されます。適量を摂取しないと、頭部における表象形成に相 当する力を、下部の身体活動において過剰に作り出してしまいます。 人間は自らの表象の支配者になっていくべきです。そのために、蛋白質 の摂取はある限度にとどめるべきです。そうしないと、表象活動から圧 倒されます。人間は表象活動から自由になるべきです。ピュタゴラスは 弟子たちに、「豆を控えよ」という教えを与えたときに、このことを意 識していました。 (シュタイナー「医食を考える」 「人智学から見た家庭の医学」風濤社 所収/P67-68) とはいえ、歴史的なピュタゴラス派についての話はおもしろく、 ピュタゴラス教団は、ピュタゴラスの死後、 師のピュタゴラスの言ったこと行なったことなどをそのまま受け入れた信仰集団と 師の残した内容の根拠を研究するマテマティコイ(学問する人)たちの 二派に分かれ、それぞれが正統を争い対立したりもしたらしい。 どこにでもありそうなことである。 今日は、武久源造の「鍵盤音楽の領域Vol.1」ALCD-1001より 「数は万物の原理である」としたピュタゴラスにふさわしく、 ピタゴラス調律によるチェンバロ演奏で、 作者不詳の「ラ・ミ・レの上で」と H.コッター「コッハースペルガー・スパニエラ」 武久源造の「鍵盤音楽の領域」シリーズの最初のアルバム。 今ききなおしてもとても新鮮な感動に満ちた名演奏ばかり。 これからも決して耳の離せないシリーズになっていくのかもしれない。 こういう音楽家の存在とそれに耳を傾ける存在がいるかぎり 音楽はまだ大丈夫だという気がする。 |
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