風日誌


那珂太郎と音楽・秋

武満徹『秋庭歌』


2003.10.19

 

上着なしで外出し難くなってきたほど、
すっかり秋めいてきた季節のなかで秋の詩を思い出す。
 
那珂太郎の詩集『音楽』の最初の、
「秋のあらしのあしあとの曲りくねり」ではじまる
「秋の・・・」という詩。
これは思潮社の現代詩文庫16「那珂太郎詩集」に収められているが、
同144の「続・那珂太郎詩集」にも、
詩集『はかた』の最初のほうに「秋」という
「女のながい髪の毛はなびくやなぎの波だち」ではじまる詩がある。
 
那珂太郎の詩はその音の連鎖に特徴があり、
日本語の詩でこれほど音にこだわったものの多いのは
現代詩のなかではまれだろうと思われる。
 
「続・那珂太郎詩集」の詩人論のなかにこうある。
(阿部日奈子「がんばれ音韻工房」より)
 
        私なりにまとめてみれば、那珂太郎にとって詩とは、限定しえぬ
        多くの意味を孕み、聴覚的音響性・視覚的形象性を持った<もの>
        としての言葉の、自律的秩序を求める試みであり、詩作とは、言
        葉のそうした特性を重層・交錯させて、偶然の切掛けによる一語
        を必然と化するような連結を一語ごとにさぐりながら、能うかぎ
        り緊密な構築物をつくることであり、それができたなら、構築物
        たる試作品は(構築物という硬い語感に反して)必ずや無世界を
        出現(現出)させるだろう、ということになる。
 
で、「無世界」を現出させるがゆえに、
那珂太郎(なか・たろう)、なかた・ろう、なかった・ろう・・・
なのではないか、とか勝手に想像したりもしているのだが(^^;)、
ともあれ、那珂太郎の詩をときおり無性に読みたくなってくることがある。
それは音楽がききたくなるのと通じているのだろうと思う。
 
さて、今日は秋、ということで、武満徹の雅楽作品『秋庭歌一具』。
 
全6曲あるが、そのなかの第4曲の「秋庭歌(In an Autumn Garden)」だけが
収められているCDなどもあり、舞台での上演の際には、
舞が奏でられることもあるということである。
 
手元にあるのは東京楽所による演奏のもので、
そこに「秋庭歌一具のこと」という武満徹の
雅楽についての言葉が添えられているが、
このとらえ方もまた日本語における詩の可能性にも
また通じているのかもしれない。
 
        この雅楽のように特殊な形態のオーケストラは世に例を見ない。
        それはかならずしも特殊な生を永らえたと謂うことに由来する
        ばかりではない。純粋に物理的な見地において特殊であり、寧
        ろそれは奇異ですらある。だがそれがあの非現世的な魅惑に満
        ちた音響世界を創出しているのだ。凡そ高音に偏った楽器群、
        その極度に制限された機能、異質の音色の集合。雅楽は、西洋
        の調和(アンサンブル)の概念からは遠く隔たっている。だが、
        あの永遠や無限と謂うものを暗示する形而上的な笙の持続ーー
        それが人間の呼吸と結びついていることの偉大さーーに対して、
        楔のように打ち込まれる箏や琵琶の乾いた響きーーそれは笙や
        篳篥とは全く異なる時間圏を形成するー。そして、管楽器の、
        殊に篳篥の浮遊するようなメリスマ、それらの総てが醸成する
        異質性(ヘテロジェニティ)は、私たち(人類)にとってはけ
        っして古びた問題ではない。
 
この、雅楽。
最近ではちょっとしたブームのようで、
陰陽師がらみでもCDがでていたりもするが、
これが作曲された1973年においては、
極めてその異質性がアクチュアルに響いていたのだろうと思われる。
そして、こうして今聴いていても、決して古びてはいない。
 
那珂太郎の詩を読み、武満徹の音楽を聴く・・・。
秋という時間性のなかに開かれた不思議な時空。
 

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