風日誌


石の永遠

ゼレンカ


2003.10.16

 

ユーラシア旅行社からこの4月発刊された
隔月刊の『風の旅人』という雑誌がある。
 
創刊号の特集が「天空の下」、2号が「水の惑星」、
3号が「森の記憶」、そして今回の4号「石の永遠」。
毎号、素晴らしい写真と文章がうれしい。
毎号、白川静のエッセイも雑誌の最後に置かれている。
今回の題は「石」。
 
         玉石混淆というが、玉も石の一種である。ただ玉は、天地至精の気を
        含むものであるという。この上なく石を愛する中国では、これを文房の
        具の重要な資料とし、特に硯石・印材として愛玩した。それでその石質
        を論ずる書として、宋の杜綰の撰する「雲林石譜」以来、清の高兆の
        「観石録」など各地の石質を論ずる者が多く、杜綰の書には雲州の霊壁
        石・平江の太湖石をはじめ、各地の名石百七十石の石品を論じている。
        その序にいう。「聖人嘗て曰ふ、仁者は山を楽しむと。石を好むは、乃
        ち山を楽しむの意なり。蓋し所謂静にして壽なる者、此に得る有り」と。
        仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむという。山石もまた可、水石もま
        た可、私は最も石の無表情・無愛想なるを愛する。唐の李賀の詩句にい
        う。「天若し情有らば天も亦た老いん」と。天地は不仁、石もまた無表
        情なるが故に、却って世の千姿万態を写し出すことができるのかもしれ
        ない。
 
動物や植物に比べると
たしかに石は「無表情・無愛想」で、
感情移入がし難いところがあるのかもしれないが、
むしろそれ故にこそ、愛すべきなのだともいえるのかもしれない。
しかし、石が「無表情・無愛想」だというよりも、
その表わす表現の時間性が異なるのだということもできる。
 
動物はこの地上にアストラル体があり
その感情をすぐに表現することができる。
植物はそのアストラル体がより高次の世界にあり、
鉱物の場合は、さらにそれよりも高次の世界にある。
それゆえに、おそらく石は人を長い時間性のなかに置くことを許すのだ。
山に行き、石に出会うときの言葉にならない思いも
その時間性からくるものなのかもしれない。
 
今日のBGMは、ゼレンカの6つのソナタ。
演奏はプロ・アルテ・エンティクア・プラハ。
手元にあるデータでは、ベネショフ、イェムニシチェ城で1994年に収録とある。
(PONY CANYON PCCL-00274)
 
ゼレンカは、ほぼJ.S.バッハと同時代に生きたボヘミア生まれの音楽家。
バッハが1685-1750、ゼレンカが1679-1745。
バッハに比べると知名度はあまりないかもしれないが
この演奏をきくとそのすばらしさに驚かされてしまう。
もちろんいわゆるバロック音楽。
このバロック音楽はどこか石の永遠と通ずるところがあるような気がする。
 
以前から、ゼレンカというのは気になっていて
きいてみたいと思っていたのだけれど、
実際にきいてみると思っていた以上に要チェックの音楽家のようである。
あまりCDとかでていなさそうだけれど。
 
 

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風日誌


雲根・宮沢賢治

ポール・マッカートニー「スタンディング・ストーン」


2003.10.05

 

昨日私たち鉱物探検遊戯隊は秋日和のなか
さらなる鉱物探索のロードに出たのだが、
夕日のなかを泳ぐように悠々と流れていく雲を見ながら
石は空からやってきたのだということをあらためて実感させられていた。
 
中国の古語では、石のことを雲の根「雲根」というらしい。
雲母も雲の母である。
空の雲の形、模様を眺めていると
まさに鉱物たちとの共通性を感じざるをえなくなるところがある。
 
石っこ賢さんこと宮沢賢治も、
まさにそういう感覚をもっていた人だったんだとあらためて思う。
そしてそういう感覚をもって賢治の作品を読まないと何もわからなくなる。
 
賢治の書簡にはたとえば次のようなものもある。
 
        今朝から十二里歩きました。鉄道工事で新らしい岩石が沢山出てゐます。
        私が一つの岩石をカチッと割りますと初めこの連中が瓦斯だった自分に
        見た空間が紺碧に変わって光ってゐる事に愕いて叫ぶこともできずきら
        きらと輝いてゐる雲母を見ます。
 
賢治は、石が空からやってきたことを知っていたようだ。
有名な「春と修羅 第一集」の「序」にある
次のような箇所もそのことから見ると深く頷かざるをえない。
 
        けだしわれわれがわれわれの感官や
        風景や人物をかんずるやうに
        そしてただ共通に感ずるだけであるやうに
        記録や歴史 あるひは地史といふものも
        それのいろいろの論料(データ)といっしょに
        (因果の時空的制約のもとに)
        われわれがかんじてゐるのに過ぎません
 
「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから」
という言葉もそうした石の実際のことを
どれほど深く理解できるかにも関わってくるはずで、
賢治の詩や作品に夥しくでてくる石の名前にしても
そうしたいわば宇宙論とでもいえるようなものに関連づけながら
見ていかないと何もわからなくなってくるのではないかとさえ思う。
 
さて、先日、最近仲の良くなっている照明屋さんに光る石のことを話したら
とても興味をもったらしくそれについて教えてくれという。
光る石というのは、蛍光のもとで光る石のことなのだけれど、
ぼくも実際に自分で試してみたことがなかったので、
近くにある東急ハンズでコンパクトなブラックライトを買って
自宅にある石たちを照らしてみたところ、これがかなり面白い。
 
蛍石の名のとおり、蛍石をはじめ
方解石やルビーなどの鉱物標本の光ること、光ること。
もちろん光る石というのは限られているのだけれど、
自分でひろってきた石のなかで光るものがあったりもして
やはり石への興味がまたかきたれられるのだった。
 
ちなみに、蛍光する石たちについて興味のる方は、次のHPをご覧ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~jm9n-ymkw/mine/fluor/flfr.html
 
さて今日のBGMは、賢治風の石とはちょっと方向性が違うけれど、
石がらみということで、ポール・マッカートニーの交響詩
「スタンディング・ストーン」TOCP-50300などいかが。
 
これは、1997年に作曲されたシンフォニー作品。
ポール・マッカートニーのこうした側面については、
あまり知られていないんだろうと思うけれど、
ドラマチックで映像的で、それなりに楽しめる作品になっている。
 
以下、ライナー・ノート(アンドリュー・スチュワート)から。
 
        マッカートニーは長い間、古代音楽に夢中になっており、音楽が宗教と
        哲学上どれほど重要視されてきたか、関心を持っていた。今回こうして
        楽章を通し、進化の過程を描いたのも、こういった関心からきていると
        言う。ポールは「スタンディング・ストーン」で、古くからのアイディ
        アを探るだけではなく、世界中に残る有史以前の巨石、立石、そしてそ
        の他の記念碑に関する書物…イースター島の彫像から、ニューグランジ
        の埋葬室(石器時代から伝わる、目を見張らんばかりのもの)、そして
        北ヨーロッパの環状列石に関する物を読み漁った。そうしてクリエイテ
        ィヴ面の強化を計った。作曲家はスコットランドを定期的に訪問し、作
        品とじっくり取り組むことが出来た。“愛しているんだけれど、その理
        由が良く説明できないことって、たくさんあるだろう。だが僕の知って
        いる人は皆、これらの立石に、強い思いを抱いているようだ。謎に包ま
        れているにも拘わらず…さ。それで楽曲のタイトルが決まったんだ。僕
        は常に、こういう風に作業を進めてきたんだよ。ビートルズ時代は、ジ
        ョン・レノンと僕がタイトルつけに熱中していた。『スタンディング・
        ストーン』というタイトルを、友達のアレン・グンズバーグに伝えたら、
        彼は指を鳴らしながら「最高だね、そのタイトル」と言ってくれた”。
 
 
 

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