シュタイナーの翻訳・新刊『人智学から見た家庭の医学』(風濤社)を読む。 例のごとくいろんな講義からの訳を集めたもの。 相変わらず<からだ><いのち><たましい>という 体・魂・霊という概念を混乱させるしかない解説が最初にあるが 講義内容そのものは、医学に関連したものでもありとても面白く読める。 労働者講義からのものも多く、ある意味でとても読みやすい。 とはいうものの、実際はとてもむずかしい内容だともいえる。 シュタイナーを読むと、そこで話されていることに興味がわき、 そのテーマについての他の書物などを読んでみることが多いのだが、 その度ごとに苛々させられたりすることが多かったりする。 そのことは、シュタイナーが講義などのなかでも すでに示唆されていたりもするのだけれど、 あらためてその現実に直面するという感じになってしまう。 『内的霊的衝動の写しとしての美術史』で レオナルドやミケランジェロについて興味を持ち、 関連書を読んでみたりしているのだけれど、 その多くには当然のごとくシュタイナーのような示唆はなく、 知識としてはそれなりに得られるのだけれど、 いつまでも痒いところが掻けないでいるもどかしさにも似た感じになる。 とはいえ、やはり、実際の作品の写真などを見ると感歎させられるし、 たとえば『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(上・下/岩波文庫)など、 作者そのものの言葉を読むとそういう感じは受けないので、 やはり研究者そのものの姿勢に由来するものであるような気がする。 要は、見ようとしているものが根本的に違う、というか。 とはいえ、シュタイナーのいっていることがすべてそうかというと そうでないところもあって、たとえばシェリングに関して シュタイナーのいっているところなどは、 いったいシュタイナーが何をいっているのか、 むしろもどかしさを感じてしまうことなどもある。 たぶんぼくの期待しているような表現がされていない、 というだけのことなのだろうけれど。 シェリングで思い出したが、今、 山口和子『未完の物語/シェリングの神話論をめぐって』 (晃洋書房/1996.7.20発行)を読んでいて、 ああ、ぼくはシェリングのこういうところに惹かれているのだな、 というところがあったので引用しておくことにしたい。 後期シェリングの魅力は彼が世界及び人間存在の根底に見据えた 非合理な原理の二面性にあろう。人間の生が、理性によっては制御 されえないある非合理性をはらみ、世界が善なる意志によっては説 明されえないという認識をその思索の中心に置いた哲学者はシェリ ングのみではない。ショーペンハウエル、ニーチェ、そしてロマン 主義の哲学者や詩人もまた共通の世界経験に基づいている。しかし、 シェリングの偉大さは、神の存在を信じながらも、その存在を否定 しさる原理を神自身のうちに置きーーしかも神の存在を支える力と してーーテアイスムとアテアイスムの境界で神を思惟そ尽くさんと したその途方もない葛藤にある。シェリングの神概念は、彼の内面 への問いに深く根差しており、彼は神(世界の根拠)の知を求めて、 もはやそれ以上は問いえない、それ以上問い進めると、すべてが瓦 解するがごとき、狂気の際にまで自己を追い詰めている。(…) ハイデガーがシェリングの絶えざる変節と四十五年にわたる沈黙 に共感を寄せるように、シェリングほど情熱的に世界と人間精神の 根拠を求めて常に新たな出発を試み、挫折し、挫折しながらも自己 の立脚点を求めて戦い続けた哲学者は希有であろう。また彼ほど非 合理な原理の考察に力を注いだ哲学者も稀であろう。単に生がそれ を破壊する原理をはらんでいるというのではなく、生を破壊する原 理が同時に生を支えてもいるという奇妙な認識は、しかし生の無根 拠や他者性の認識にもまして、不思議な説得力を持っている。 (山口和子『未完の物語/シェリングの神話論をめぐって』 晃洋書房/1996.7.20発行/P223-224) このことは、シェリングの「体系」についての姿勢にも関連していて、 シェリングの「体系」は、体系のうちに非体系をはらんでいる。 体系が体系として肯定されるということは、 私が私であるということが矛盾無く肯定されるということであり、 むしろそうでないところそのものを矛盾的に根拠にするというあたりが シェリングの魅力だともいえるのかもしれない。 まるで絶対矛盾的自己同一のよう・・・。 さて、BGM。 今日は、武満徹の映画音楽をきいてみることにする。 ちょうど手元に「オリジナルサウンドトラックによる武満徹映画音楽1」 小林正樹監督作品集(VICG-5124)がある。 収められているのは「怪談」(1964)、「切腹」(1962)、 「燃える秋」(1978)、「からみ合い」(1962)、 「日本の青春」(1968)、「化石」(1975)。 ぼくはこれまで武満徹の音楽のなかで、 映画音楽やドラマの音楽をまとまってきいたことがなく、 これがある意味ではじめてになるのだけれど、 あらためてその豊かさに驚かされている。 いずれ刊行される武満徹の全集の映画編というのは 必聴だという気がしている。 武満徹の音楽をきく楽しみというのは、 ある意味で、「体系のうちに非体系をはらんでいる」というか、 「自然のなかに非自然がふくまれている」ようなところにも あるのかもしれない、という気もしてきた。 そういえば、『人智学から見た家庭の医学』にもあったが、 シュタイナーは、自然をそのままで肯定したりはしない。 人間は自然からそれを越えるものを創造しなければならない。 人間は自然のうちに宿る非自然なのだろう。 その矛盾を生きながら、その自然を解放する義務も負う。 「芸術」もそうした自然と非自然の絶対矛盾的合一という営為なのかもしれない。 |