風日誌


古今亭志ん朝「お見立て」

日本人の見立て好き


2003.10.09

 

久しぶりに落語が聞きたくなった。
とはいえ近くに寄席のあるわけでもなく、
手軽にきけるCDとかはちょいと高い。
調べてみると県立図書館で落語のCDが借りられるらしい。
古今亭志ん朝の「お見立て」の入ったCDがあった。
そういえば古今亭志ん朝の亡くなったのが10月1日。
もう二年になる。
 
寄席で落語をきいたことはあまりないが、
小さい頃からテレビやラジオで漫才も含め
よくきいていたのを思い出す。
「笑点」も毎週見ていた。
すぐに顔が思い浮かぶのは桂歌丸だったりもする。
ぼくの言語感覚にはおそらくなにがしか
こうした落語からきているものは確実にあるんだろうと思う。
 
落語の話芸というのは今あらためて思っても特別なものだし
扇子と手ぬぐい、そして手と顔でいろいろ表現する。
たとえば扇子でそばをずずずず〜っとすする、とかいう表現なども
あらためて見直してみるとかなり面白い。
 
志ん朝の落語の入ったCDは1枚しかなかったようだけれど、
志ん生や圓生、米朝のものなどはたくさんあったようなので
しばらく落語漬けになってみるのもいいか、とか思っている。
そういえば以前にも同じように広島に越してくる前、
市立図書館で志ん生を中心によくきいたときがあった。
ほんとうに、ききはじめるとやめられなくなる。
 
それはともかく、この落語の「お見立て」というのは、
遊女屋の「張り見世」で好みの相方を選ぶということで、
この落語のオチもその「見立て」なのだけれど
(墓の「見立て」だったりする(^^;))
以前、丸谷才一と山崎正和の対談で、
「日本人の見立て好き」についてのものがあったのを思い出した。
 
その見立ては遊女屋での見立てではなくて、
歴史上の人物をだれかに見立てるとかいう話で、
たとえば源氏物語の桐壺更衣と桐壺帝を楊貴妃と玄宗皇帝に見立てたり、
武士が自分の行動の筋立てを歴史のなかで見立てたりする。
 
        たとえば『太平記』の史観、西洋の合理主義の歴史観のように、
        事の推移を普遍的な法則というかたちではとらえない。にもかか
        わらず、単なる類別でもない。その普遍と個別の中間のところに、
        「見立て」という思想があるような気がします。われわれはよく
        文藝用語で、「類型」とか「典型」とかいいますけれども、そう
        いう言い方をするなら、類型と典型の中間のようなところに“見
        立て”があるといってもいい。類型というのは、いってみれば統
        計的に一般化された姿でしょう。それに対して典型というのは、
        歴史の中にたぶん一回しか現われてこないけれども、それゆえに
        かえって人間の普遍的な面をあらわしているともいえるものです。
        “見立て”というのは、法則と個別の中間、類型と典型のちょう
        ど中間のところにあって、一人ずつの人間には一回しかない不幸、
        絶対に個別的で孤独な悲劇を納得させてくれる仕掛けなんですね。
        (『半日の客 一夜の友』文春文庫/P45)
 
この「見立て」は、ある種の型に似ているというか、
その型にあてはめてなにかを見てみるという方法でもあって、
その親戚のようなものに、たとえば御三家という型で
歌手をとらえたりするようなものもあるのかもしれない。
ときにはすごく強引に当て嵌めて納得しようとする場合もあったりするが、
それなりに見えてしまうときもあるので、無視はできない見方だといえる。
 

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