ロバート・ワイアット「クックーランド」
『神秘学概論』の「高次の諸世界の認識」の章での「魂の力」について、 「真昼の星」のたとえを思いつく。 真昼には星は見えないが、 見えないからといって星がないわけではない。 太陽の光が強すぎてふつうは見ることができなくなっているだけである。 そしてほんとうに見ることができないのだと思い込んでいる。 しかしたとえば佐治晴夫は「真昼の星」を見せてしまう。 この地上世界を真昼の世界、 霊的世界を夜の世界だとすると、 霊的なものを見ることができないのは、 私たちが「真昼の星」を見ることができないようなもので、 あげくはそんなものは存在しないということにさえなってしまっている。 見えないものは存在しない。 今の自分に見えないということが 絶対的に見えないということになり 見えないということはないということだということになる。 同様に、聞こえないものは存在しない等々。 そうして、わかりやすくて刺激が強く 単純なもの、消費されやすものばかりがクローズアップされ、 そうでないものが見えなくなり、聞こえなくなっていく。 今、音楽業界などもかなり厳しい状態だというが、 それはそうした消費されやすいものへの偏りが原因になっているような気がする。 そして、声高ではないが、音楽を確かに深めているものが いつのまにか存在していないかのようになってしまっている。 たとえば、ロバート・ワイアットの 6年ぶりだという新譜「クックーランド」VACK1269。 全16曲の8曲目と9曲目のあいだに30秒の沈黙があったりもする、必然? ぼくは今のロック&ポッポス関係の事情には疎いからよくは知らないが、 デビッド・シルヴィアンの新譜さえインディーズからでるくらい、 音楽シーンはマスとしてはかなり貧しいものになってしまっているのではないか。 「真昼の星」を見えないと思い込んでいる人がおそらく圧倒的に多いように。 しかし数少ないとしても、確実にすぐれた音楽は育っているのだと思う。 「真昼の星」を見る人が確かにいるように。 舟沢虫雄さんの音楽だって電子音をつかってあれだけの世界を創造し、 聴くたびに四大が解放されていくようなポエジーを味わわせてくれる。 (今年にでた『月化粧』という新譜もとても豊かです。 やはり月のもとでしか見えずきこえないものというのがあるのです、たしかに) さて、ロバート・ワイアット自身の言葉のあとにP.S.として 「聴力検査:ピンが落ちる音が聞こえるかな?」とあるが、 ロバート・ワイアットの声がちゃんと聞こえる人が確実にいればいいなと思う。 |
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