風日誌


見えないものを見る・聞こえないものを聞く

新実徳英「風のかたち」


2003.09.30

 

自分が認識できないものに対する人の態度は
典型的にいくつかの態度に分けられるように思える。
 
自分が今認識できないものを認めない。
これからも認識できないだろうしそんなことをする気もない。
 
これにはいくつかの展開があって、
自分は認識できないけれど
「権威」にそれを任せて自分はそこから逃れて安心する方向と、
「認識の不可能性」を絶対化して安心する方向性とがある。
 
今自分が認識できないものを認めたとしても、
それに対する関心がないので、
認識しようとは思わない、ということもある。
しかしそれ以前に、認識できないという意識さえない場合もある。
どちらにしてもそれは、「問い」をすることのできない状態のようなもので
そこになんらかの認識拡大を目指そうという方向性は見られない。
 
できうれば、自分が今認識できないでいるもののことに気づき、
それに対する関心を持ち、それに対する「問い」を
できうるかぎり適切な仕方でもちたいものなのだけれど、
すべてにおいてそうすることは困難だろうから、
せめて少しでもそうしたものに気づくことができたときには、
それらを「権威」に委ねてしまったり、
認識する必要がないとしてしまったりすることは避けたいと思う。
 
自分の認識は過去の自分の認識のままではないわけで、
今の自分の認識はそれ以外のものではないのだけれど、
これからもずっとそのままではないということ、
そしてそのためにはなにができるのかということだけは
意識しておきたいと思っている。
 
この話とはあまり関係がないかもしれないのだけれど、
ふと、あすなひろしというマンガ家のある作品を思い出した。
あすなひろしというのはユーモアあふれるストーリーを描きながら
一瞬立ちどまって聞きとりたくなるような
静かな叙情を表現していたことが印象に残っている。
そんな作品のなかに、ストーリーとかは忘れてしまったのだけれど、
「風がみえる」という言葉で終わる作品がある。
 
もちろん風が吹いているのは
木の葉がそよいだりすることでそれが見えたりもするのだけれど、
風そのものが見えるというのでもない。
だからプネウマのような魂のありかたとして
それに近い言葉が用いられたりもするのだろうけど、
そのあすなひろしの「風がみえる」という言葉は
そのとき不思議な余韻をぼくのなかに残している。
もう25年ほど前にたぶんどれかの少年誌に掲載されたものだ。
 
見えないものを見る
聞こえないものを聞く
そのために自分は何を問い直さなければならないのだろうか
そんなことをよく考えたりしている
 
今日は、新実徳英の室内楽作品「風のかたち」。
室内楽作品集「光の園」CAMERATA 30CM-525より。
その不思議な響きのなかで・・・。
 
新実徳英には『風を聴く 音を聴く』(音楽之友社/2003.1.10)
という著書があって、そのなかでシュタイナーの言葉が
引用されたりもしている。
著者はよく「天籟を聴く」「地籟を聴く」ことから
自分の音楽ははじまる、というふうに語る。
もちろん「人籟を聴く」ことからも。
 
天籟・地籟・人籟というのは荘子の言葉だけれど、
それらを聴きとることのできる耳を持ちたいと切に思う。
 
 

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