長屋和哉『うつほ』
思考と感情を支配して、日常の外的な生活がもたらす幸、不幸、 満足、課題、要求などのすべてを、精神と心情から遠ざけること ができるほどに、完全な「内的平静」の時をつくるのである。 ・・・ 内的な静けさと安らぎのなかに、繰り返して没頭する人は、外的 生活の課題のためにも、内から力が湧いてくる。だから、生活上 の努めを、これまで通りというよりも、これまで以上に立派に果 たすようになる。 (『神秘学概論』P349-350) この「内的平静」のことでは、天台小止観について書かれた 松居桃樓さんの『死に勝つまでの三十日』(白樹社)を思い出す。 そのテーマは、「感情を波だたせず、思考力を正しく働かせる」ということ。 逆巻く波のなかで船を進ませるのは容易なことではなく、 そこでは進路を見定めるのはとてもむずかしい。 シュタイナーの『霊界の境域』の最初の 「思考への信頼と思考する魂の本質/瞑想」でも、 「明瞭な意識にとって、思考は魂の生活の中を流れる印象、気分、感情等の 奔流のただなかの一つの島である。印象や感情を思考によって照らし出し、 把握すれば、印象や感情から自分を自由に保つことができる。魂の船を思考 の島へ漕ぎ着けることができれば、激しい感情の嵐の中にあっても確固とし た平安を得ることができる。」とある。 また、『人智学指導原則』の5には、 「人間は内的平静のために、 精神(霊)のなかにおける自己意識を必要とする」とある。 自己意識が必要なのは、「思考と感情を支配」するためである。 思考と感情を統御するのはまずは自己意識であって、 自己意識がないと自分はそのつどの嵐のなかでどうしていいかわからなくなる。 松居桃樓さんは「死」を克服するための感情と思考の行について書いているのだが、 「死」を克服するということは、「生」を克服するということにほなかならない。 個人的にいうと、「死ぬ」ということについての恐れはあまりないけれど、 むしろ「生きる」ということについての恐れのほうがなかなかなくならないでいる。 ぼくには、『死に勝つまでの三十日』というよりは 『生に勝つまでの三十日』いや『生に勝つまでの千日』とかが必要なのかもしれない。 しかしその両者はじつのところ同じものの裏表なのだろう。 仕事などに追いまくられ、疲れ消耗してくると、 「内的平静」というのはとてもむずかしくなる。 ましてや「生活上の努めを・・・これまで以上に立派に果たす」とかいうような ご立派な考えなどからははるかに遠くなる(^^;)。 風で波立たない湖面のような心には歪まない世界が映る。 せめて一日のいくばくかにはそうした「内的平静」へと向かう時間を持ちたい。 しかし静かなときのなかではむしろさまざまなざわめきが立ち上ってくるが その立ち上ってくるものは日々にはみずごされてしまいがちなものだ。 それを直視してみることが必要なのだ。 じつはそれがいちばん怖かったりするのだけれど。 ところで同時に、「動」における「静」もどこかで得たいものだと思っている。 「動」のなかでしか得られないような、 たとえばランナーズハイのようなものもあるのだろうから。 今日のBGMは、長屋和哉『うつほ』。 その音霊のなかでみずからをたゆたわせていると 湖面のようにゆれている自分のなにがしかがそこに見えてきたりもする。 |
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