風日誌


耳の人・目の人「蕪村」

細川俊夫「うつろひ」


2003.09.20

 

松岡正剛の『山水思想』以来、蕪村が気になっている。
『山水思想』の各章の最初には、芭蕉と蕪村の句が並べて置かれてある。
 
「千夜千冊」の第八百五十夜(03年09月16日)にも
与謝蕪村『蕪村全句集』が紹介されていて、
そのなかで、画人であった「目の人」であるだけではなく、
「耳の人」であった、とある。
「耳の蕪村が耳を注ぐのに対して、
目の蕪村はゆっくりと全景をうけとめる。」
 
折りにふれて読み進めている
森本哲郎『詩人 与謝蕪村の世界』(講談社学術文庫)の「宜風」の章でも、
蕪村を「音のなかに魂の在所を証す詩人である」としている。
 
        蕪村は、まぎれもなく「音」をとらえ、その音のなかに魂の在所を
        証す詩人であり。「時」の深い位相のなかで意識の根源を開示する
        俳人であった。だが、そうした詩人蕪村は、また画人蕪村でもあっ
        た。画人としてのかれは、こんどは、その「音」、その「時間」の
        とぎすまされた感覚を、空間に投写しなければならなかった。画人
        蕪村の闘いは、時間の深い位相を、どのように空間化するかにあっ
        たともいえよう。そして、それが絹本に、あるいは紙本のうえに描
        きだされたとき、かれの傑作が生まれたのである。(P96)
 
        蕪村は深い「時」の移ろいのなかに立ちつくす詩人であった。遙か
        な「空間」の奥行のなかで自分の存在をたしかめる画人であった。
        そのような世界でかれの目をとらえたのは、過ぎゆく風の姿であり、
        その声であった。そして、風の過ぎ去ってゆく「遠い」かなたに、
        かれは、おのれの魂の故郷を見出していたのである。(P114)
 
目の人であるということと
耳の人であるということは
多くの場合両立しがたいことがあるのではないか。
そんなことを思ったことがある。
たとえば澁澤龍彦は目の人ではあるけれども
耳の人であるとは決していえなかった。
 
もちろん両立しえないということではなく、
その両者は時間と空間の関係のようなもの。
時間の側面から世界をとらえようとするか
空間の側面から世界をとらえようとするか。
その両者のクロスしたところに
世界の秘密が開示されるというところもあるのではないだろうか。
 
蕪村の魅力のひとつは
目の人と耳の人とが
同じ蕪村という人のなかで
開かれているというところにあるのだろう。
 
さて今日は、細川俊夫の「うつろひ」ー笙とハープのためのー。
(細川俊夫作品集 音宇宙I より)
 
自身による作品解説から。
 
        この作品では、笙は天体を、ハープはその天体の光を受ける人を象徴
        する。笙奏者は、ハープ奏者を中心に円形を描くように移動しながら、
        演奏する。この半円を一日の夜明けから夕暮れまでとも、一年の春か
        ら冬の移りゆきとも、とらえることができる。
 
天体の音楽というのもあるが、
空間の動きそのものが音楽になっているところがあって、
ときおり自分のいる今ここにそのように耳をすませてみると
物理的な音というのでないうつろいゆく音の図のようなものが
見えかつきこえてくるように感じるときがある。
 
それは動いているようにみえないもののなかにもひびいている音で
たとえば植物の生長する時間のスパンでも
鉱物が結晶したり変成したりする時間のスパンでも
たしかに響いている音である。
 
ある意味ではそういう耳は、そして同時に目は、
「理念」をききとる耳の次元なのではあるが
それはたしかにそこにあって
わたしたちに深いところから語りかけているのである。
 
 

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