谷川俊太郎・朗読と谷川健作・ピアノ「幼稚園の天使」
引き続き、シュタイナーの『第五福音書』について。 イエスがエッセネ派教団に関わっていたときに 仏陀のヴィジョンが現われこう語る。 これについても、シュタイナーは 「この霊的対話の内容を今日お伝へするのが私の責務です」とある。 もし私の教へが、私の説いた通りに完全に実現されたなら、人々は 皆、エッセネ派教団のやうになるに違ひない。だが、そうあっては ならない。俗世から離れた清浄な僧伽を作ったのは誤りであった。 エッセネ派教団の人々も世間の人々から離れることによって、霊的 進化を遂げている。彼らは清められ、他の人々は依然として苦の中 にゐる。俗世の人々を犠牲にして自分が清められるといふことがあ ってはならない。私の説いた教へを実現すれば、エッセネ派教団の やうに清められた人々が出現する。だが、さうあってはならないの だ。(P81) このことに関連していると思われるのだが、 『社会の未来』でシュタイナーが次のように述べているのを思い出す。 今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛す る思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私 たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれ る才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であるこ とが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひ とりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんな に善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、指を しゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、 と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想 にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけ ることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力 し、今日の人々を深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意 気込みが強くなるでしょうから。 (P30-31) yuccaが、マタイ福音書にもある荒野の誘惑の場面で 「ひとはパンのみにて生きるのではない」と語られる際、 この試みは完全に克服されてない、というところをご紹介していたように、 この「パンのみにて生きるのではない」にもかかわらず、 この世では、石をパンにかえなければ生きていけないという事実! 『社会の未来』の別のところで 人々はルツィフェルとアーリマンについて聞かされ、「ああいやだ、 そんなことは考えたくない。私はルツィフェルやアーリマンには関 係ない。私は悪魔とは関係をもたない、善き神の下にいる」と言い ます。そういう人たちこそ、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に深 く陥っているのです。 とも述べているように、 常に「悪」と関係のなかで ある意味、矛盾を生きる、ということ。 その課題について考えないわけにはいかない。 キリストにさえ克服できなかった、この極めて重要な課題・・・。 話は変わるが、恩田陸の新刊『まひるの月を追いかけて』のなかに 「出家」しようとする男性が登場するのだけれど、 やはり、この「出家」というのは 現代においてどれほどの意味を持ち得るのかを考えてしまう。 あまり意味がないと思うんだけれど・・・。 この物語、これも最後のあたりまでとても面白かったのだけれど、 いちばん最後ですこしドッチラケしてしまうことになったお話のひとつ(^^;)。 さて、今日は谷川俊太郎の朗読と谷川健作のピアノ 『クレーの天使』から、「幼稚園の天使」。 かごめかごめのわのなかに てんしがいた おとなになっておもいだしたとき もうてんしはいなかった どこにも いのりたかった だれにむかって? あいしたかった どうやって? なづけることのできないこころに もみくちゃにされ だれがすきか なにがきらいかも わからなくなったとき あくまがやってきた ほほえんで |
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