風日誌


『第五福音書』1

バッハのトッカータ


2003.09.18

 

yuccaが読み直したのを受けて
「そんなことが書かれてあったのか」と、
シュタイナーの『第五福音書』を読み直す。
もう何度か読んだはずなのだけれど例の如くで
あらためてその内容に驚かされる。
 
シュタイナーは自伝にも書かれていたようにこのなかで
「私はキリスト教的な教育は受けませんでした」と述べている。
そのために「自分がキリスト教について話す義務を負ってゐる事柄を
見出すのにある努力を必要としている」と。
「自らの気持ちを克服して」とも述べている。
しかし、それゆえに、
「私は精神を通してキリスト教とキリスト存在へと導かれたのであり、
キリスト教についてこのやうな事柄を偏見や捉はれなく話せる
権限を得たと思っています」。
 
『人智学指導原則』のなかでも述べられているように
「人智学は・・・意識魂から新たな仕方による世界の理解、
キリストの理解を発展させねばならない」のだが、
その際にも、この『第五福音書』は必読かもしれない。
 
キリスト関連のシュタイナーの講義も
『イエスからキリストへ』が訳され、
『マタイ福音書』も近々訳されるらしく、
ようやくある程度見渡しやすくなっている。
あとは、それをどのように受けとめるかということ。
 
この日本では、ぼくもそうなのだけれど、
キリスト教には心理的にいってもかなり距離がある。
まさに、「キリスト教的な教育」を受けていないことが多い。
それ故にこそ、「自らの気持ちを克服し」、先入見をなくしさえすれば、
「努力を必要と」するとしても、むしろそれを「捉はれなく」
受けとめることもできるのではないかと思えるのだけれど…。
実際、シュタイナーもいうようにキリスト教の教義内容などは
ある意味ほかのどの宗教にも見出せるものばかりで、
たしかに仏教などをみていったほうが満足しやすいのだけれど、
問題はそこにはないということだけは理解しておく必要がありそうである。
 
yuccaから『第五福音書』の話をきいたときに
yuccaの弾くバッハのトッカータをききながら、
ああ、キリストだな、という思いがこみあげてきた。
このところあまりバッハをきいていなかったので
あらためてバッハの音楽に感動をあらたにすることができた。
 
バッハのトッカータをいちばんはじめにきいたのは
グレン・グールドの演奏だけれど、その後ほかの演奏もきき、
またチェンバロなどによる演奏などもきいた。
演奏の好き嫌いはそれなりにあるけれど、
やはりバッハの音楽そのものの力はそのたびに
びんびんとこちらに伝わってくる。
 
 

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