風日誌


レーナ・マリアの聖歌・賛美歌


2003.08.20

 

「人間は手である。手によってつくり出された存在である。」
とは書家の石川九楊さんの言。
「語り手」「聞き手」「書き手」「読み手」と、
そういえばどれも「手」がついていたりする。
でも、最近ではその「手」がだんだん廃れてきている向きもある。
 
シュタイナーは、私たちの手は魂と結びついているといいます。
そしてその「手」というのは、四肢の手だけではなく、
エーテル体の手でもある。
「肉体の手は静止していても、エーテル体の手は動くのです」と。
「私たちは、エーテル体の脳を、思考するたびに動かしている」
「思考するためには、まず頭蓋が固定化され、
そしてエーテル体の脳だけが引き離されて、
動けるようにならなければなりませんでした。」
(『オカルト的な読み方と聴き方』)
 
昨日は、家具などのプロダクトデザインをしている専門学校の学生を
主に10代を対象とした夜のラジオ番組に生出演させて
パーソナリティと対話していくというパブリシティのお世話をしてきた。
(ちなみに、パブリシティというのはたとえば広告スペースではない
番組や紙面のなかでとりあげてもらう広告手法のこと)
実際にいろいろアイデアを考えながら、
「木くずにまみれて」いろんなものをつくっていく面白さ。
その生き生きとした目がとても印象に残った。
 
考えることとつくること。
「語り手」「聞き手」「書き手」「読み手」、
私たちは「手」であることを忘れないでいたいものだ。
 
今日のBGMは、レーナ・マリアの歌う聖歌・賛美歌。
 
レーナ・マリアには手が失われているけれど、
それ以上の深い深い「手」をもった「歌い手」である。
その澄み切った声の響きにのせて歌われる賛美歌。
たとえば、聖歌521。
日本語の歌詞で歌われる
「キリストには かえられません 世のなにものも」
 
 

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