風日誌


終戦の日

武満徹「スタンザ第1番」


2003.08.15

 

終戦の日。
第二次大戦の終戦だから1945年。
いまからすでに58年前のことになる。
1945年から58年さかのぼってみると1887年。
明治のはじめのころのことになる。
 
日本というを明治期前後以降につくられたものとして
とらえてみることもできる。
そしてさらにそれを明治以降につくられたものと、
第二次大戦以降につくられたものに分けて見てみる。
その二つの屈折を通じて現代の日本があるととらえてみる。
 
そして、現在の日本はそのふたつの屈折の前で
それをなんとかしようともがいてみるようにもみえる。
しかも終戦からすでに58年。
「終戦」ということそのものが
意味を持ち得なくなりつつある世代が続々と増えてきているなか、
仮構された日本という物語にしがみつこうとする者、
その「仮構された」ということさえわからないまま
「大きな物語」としての「日本」を声高に叫ぶ者、
日本という仮構された物語の生成プロセスを検討しようとする者、
仮構された日本を意識しながら新たな場をつくろうとする者、
わからないので大きな力のほうに寄って置こうとする者、
それからなにがなんだかわからないけど日本に住んでいるという者、
・・・そうしたさまざまが現代の日本という場をつくっている。
 
そういうなかでいったい何が必要なんだろうかと考えてみる。
それは、自分が感じ、考えているその具体的な事柄であるよりも、
その根本の認識の枠組みのほうなのではないかと考えることがよくある。
自分の世界観の根差しているところといってもいい。
それは知覚の仕方であることもあるだろうし、
いわゆる思想的なことでもあるだろう。
ほとんどの場合それらにはあまり意識が向かない。
じっさい、それを検討してみるのはとてもむずかしいからだ。
 
たとえば、私とあなたが同じ風景を見ているとする。
はたして私とあなたは同じものを見ているのだろうか。
私の見ている青空とあなたの見ている青空は
同じ青空なんだろうかと問うてみる。
それがとくに問題とされにくい対象であれば
その違いはあまり問題にならないことが多いのだけれど、
その対象が、主体の認識の違いを明らかに反映してくるものだと
その違いはほんとうに大きなものになってくる。
 
終戦の日の意味を考えてみるときにも
その違いはますます大きくなってきているだろう。
養老孟司の『バカの壁』が売れているのも、
私とあなたの認識のありかたの違いがことのほか大きいということに
ちゃんと気づいておく必要からということもあるのかもしれない。
 
さて、今日のBGMは、武満徹の「スタンザ第1番」(1969)。
手元にあるのは、若杉弘指揮による初演(1696)のもの(POCG-91034)。
 
ときどき武満徹の音楽が無性にききたくなる。
その理由のひとつは、ルーティーン化した在り方を去りたい、
しかも美的な仕方でそうした在り方にシフトしたい、
そのためにもっとも効果的だということがあるように思う。
 
ちなみに、なぜ「スタンザ第1番」なのかといえば、
その最後の部分にソプラノで、
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』からのテクストが
ソロで語られるシーンがあるのを
今日はきいてみようと思ったから。
そのテキストは
「世界がいかに在るかではなく、世界が在るということ…」等。
 
 

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