風日誌


「実践」の陥穽と鬼

大村憲司「春がいっぱい」


2003.08.09

 

雨は降っていないが、今朝も台風10号の影響で風が強い。
昨日の夕方は雨と風のなかで
不思議な夕焼けが空を魔術的な明るさで包んでいた。
自分がどこにいるのかを忘れてしまうようなルシファー的な光景・・・。
 
さて、松岡正剛の千夜千冊は二回続けて「夏休みプレゼント」ということらしい。
 
第八百三十三夜はヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、
テーマは、「ヴィトゲンシュタインのカタルトシメス問題」。
「思想にケリをつけたり哲学にケリをつけるということも可能なのだろうか。」
「もちろん、できる。」と語られる。
 
それはともかく、そこで述べられていることとはまるで関係ないのだけれど、
哲学はともかく、どうも「思想」という言葉はいまひとつ好きになれなかったりする。
シュタイナー思想といった表現がされることもあるが
どうも「思想」というのは適切じゃないのではないかという気がする。
シュタイナーの精神科学はすでに「思想」にケリをつけているわけで・・・。
 
「思想」ということで思い出すのが「実践」という言葉。
思想と実践、理論と実践というふうに対立的に使われたりもする。
それは決して二元的なものではないのだけれど、
なんでも「実践」という片方を強調する向きには違和感を感じてしまうことが多い。
多くの場合、たんに実際にやってみるという程度のことが多いのだと思うのだけれど
それらはわざわざ実践と銘打つ必要があるとは思えない。
目に見える形にするということを実践だと思いこんでいる人がいるとすれば、
最高度に実践的である「思考」や「理念」形成を実践だとは思えないに違いない。
(建築物を見るときにその設計理念を見ないで外形だけをみてしまうようなこと)
また心に思っていることにしても、それが目に見えないからといって、
それがとるにたりないことだとはいえない。
たとえば、『イエスからキリストへ』のなかで、
シュタイナーは次のように述べている。
 
         粗雑な感覚の概念にしたがうと、「石が屋根から水のなかに落ちると、水の
        なかに並が立ち、その波が広がっていく。そういうふうに、作用が続いていく。
        しかし、人間の心魂のなかで起こることは、ほかのものから遮断されている」
        ということになります。罪を犯し、迷い、弁償するのは、そもそも心魂の要件
        だということができます。
         薔薇十字劇『秘儀参入の門』で、カペシウス教授とシュトラーダー博士がア
        ストラル界に現われる場面を思い出してほしいと思います。そこでは、彼らが
        考え、語り、感じることは客観的な世界、大宇宙にとって無意味ではなく、元
        素のなかに嵐を引き起こします。
 
さて、第八百三十四夜は沢史生の『鬼の日本史』、
テーマは、「歴史に閉じ込められた者たち」。
 
ぼくにとっては、この「鬼」。
とても近しい話題なのでうれしいのだけれど、
一般にはそうではないらしい。
歴史から閉めだされているからこそ「鬼」というふうにいわれるわけで、
従ってアカデミックな研究とかからも顧みられにくいものなのだろう。
 
        ぼくも、そのようなことについて『フラジャイル』のなかで「欠けた王」などと
        して、また『日本流』では負の童謡として、『山水思想』では負の山水として、
        さらに「千夜千冊」では数々の負の装置として、いろいろ持ち出している。けれ
        ども、ぼくが予想しているのとは程遠いくらい、こういう話には反響がない。
        寂しいというよりも、これはこういう話には日本人が感応できなくなっているの
        かと思いたくなるほどだ。
 
松岡正剛のアプローチは、神秘学的というのではないので、
それでどう、ということにもならないのだけれど、
ふつうは注目されにくい視点をフォーカスしていく仕方には
この「千夜千冊」にしてもとても示唆的ではある。
 
ところで、今日のBGMは8/6に発売された大村憲司の「春がいっぱい」。
 
ギタリストである大村憲司は4枚のソロアルバムを遺しているが
(「First Step」1978、「Kenji Shock」1978、
「春がいっぱい」1981、「外人天国」1983)
そのなかでもいちばん評判がいいらしい「春がいっぱい」をきいてみることにした。
実は、名前だけは知っていたが、その演奏を意識してきいたことはなかったのを、
「ほぼ日刊イトイ新聞」の「続・大村憲司を知ってるかい?」
http://www.1101.com/omura/index.html
で、沼澤尚、宮沢和史、高橋幸宏、大貫妙子とかの話を読むうちに
大村憲司というギタリストに興味をもたざるをえなくなったのである。
 
「春がいっぱい」はプロデュースは大村憲司なんだけれど、
共同プロデュースしているのが、高橋幸宏と坂本龍一。
大村憲司はYMOにも参加していて、
この「春がいっぱい」は「YMOとの関わりが詰ったアルバム」。
ギター・マガジン編集長の野口広之によれば
(これも「ほぼ日」の「続・大村憲司を知ってるかい?」から)
「憲司さんのギターには、品があるんです。とにかく音に品がある。」。
大村憲司はすごいギターのテクニックをもっていたようだけど
そういうのを決してひけらかさないで
ギターで「歌」を歌おうとしているところがあって
それがけんけんぎすぎすしない品になるんだろうなと思う。
このアルバムには大村憲司のヴォーカルもたくさんでてくるが
これがきくほどにいい味をだしていて何度きいてもいい。
たぶんぼくの愛聴版のひとつになるんだろうなという気がしている。
 

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