昨日から今日にかけて yuccaの訳した 『内的霊的衝動としての美術史』第2講を読みながら、 画像を登録してHPのページをつくったり DTPソフトで冊子化しPDFファイルにしたりしながら (HPにPDFのほうも先ほど登録しました) レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロのまわりをうろつき あのルネサンスという時代について考えている。 それにしてもルネサンスということばほどには ぼくはそれについてあまりに知らなさすぎる。 メディチ家のこともほとんど知らない。 少し前にレオナルドについて 下村寅太郎の『精神史についての芸術家』(筑摩書房)を読んだのを思い出した。 そのなかで印象に残っているのは レオナルドの作品には未完成のものが多いということだったりする。 本棚を探して記憶の箇所を確認する。 探究には終わりはない。もはや完成は問題でなくなり、完成を目的 とししなくなったようにすら見える。完成と未完成の区別は問題で はなく、未完成に安住し、完成と未完成の間を自由に往来した。単 に画面を布彩し尽くす、という如き外面的条件によって完成とする ことは無意味である。外面的には未完成なものも、彼には完成であ り得たであろう。これは伝統的な絵画の概念の変革を含蓄し、素描 を独立の作品とする観念に連なる。絵画は単に形象や事件の叙述で はなく、画家自身のアイディアや精神の表現であるということにな れば、従前の意味での「完成」を必要としない。未完成とされるも のもレオナルドにとっては、完成であり得たであろう。少なくとも 区別する意味も理由もなくなったといってよい。(P31-32) 完成と未完成の区別が意味をもたなくなるというか 永遠に推敲されつづけるプロセスであるということが 宮沢賢治の作品などでも指摘されているのを思い出した。 逆にいえば、完成というのは何なのだろうかということが浮上する。 はたして完成というのはあり得るのだろうか。 あらゆるものにおいて。 今日のBGMはMonday Michiruの「Episodes in Color」. 再来週広島のクラブクアトロでMonday Michiruのコンサートがあるらしい。 知人がわざわざ教えてくれた・・・のだが ちょうどその日のその時刻、生パブリシティのため クライアントをつれてラジオ局のスタジオにいかねばならない。 タイミングの悪いこと。
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