風のメモランダム

「ゲド戦記」の熱い夏/ぼのぼの20周年/いしいしんじ特集


2006.7.6.Thu.

■スタジオジブリと「ゲド戦記」の熱い夏

ぴあから刊行されている月刊誌「Invitation」8月号の特集が↑。
ちょうど今日は、「ゲド戦記」のCD、
サウンドトラックと「ゲド戦記歌集」も発売日でもある。

「ゲド戦記歌集」は、手嶌葵のファーストアルバムともいえるが、
宮崎吾郎監督は、昨年の春、「ゲド戦記」がまだ絵コンテにもなっていないとき、
鈴木プロデューサーから、手嶌葵のデモCDをきかされて「鳥肌が立った」そ うである。
「テルーの唄」はすでにヒットチャートの上位を占めているほどになっているが、
早速聴いてみた「ゲド戦記歌集」の声は、予想を上回った素晴らしいもの。
来週には、仕事を兼ねた試写会で「ゲド戦記」を見ることができそうだけれど、
そのときの声優としての手嶌葵の声もはやく聞いてみたい。

さて、「ゲド戦記」の予告編で使われている次の言葉は、
おそらく鈴木プロデューサーの仕掛けのひとつではあるだろうが、
まさに、現代のなにかを非常に的確に表現していて、驚いている。

世界の均衡が崩れつつある。
人間の頭が、変になっている。
人と竜はひとつになる。

今までになく、妙にこの映画が気になっているのは、
この言葉に象徴される何者かでもあるのだろう。

■ぼのぼの20周年

いがらしみきおの『ぼのぼの』の28巻目が発売されたが、
これで連載20周年になるのだそうだ。
「変わってゆくけど変わらない。」のだそうだ。

最初の巻からずっとつきあって読んでいるけれど、
ぼくも20年前とくらべて、
「変わってゆくけど変わらない」といえるのかもしれない。

今回の巻のメインテーマのひとつは、「地平線を見ると」。

地平線、水平線をみていると、
たしかに不思議な感覚になってくるところがある。
「ただ遠くを見る」ことに象徴されるようななにか。
そこには、ひょっとしたら、ずっと過去の自分や
ずっと未来の自分がいて、今のぼくのほうをじっと見ているのかもしれない。

■『文藝/2006秋/いしいしんじ特集』

文藝の秋号の特集は、
「4枚の地図が案内する“いしいしんじ”の遊び方」。
つまり、いしいしんじ特集。
インタビューや対談や特別掲載など、盛りだくさん。

そういえば、この『文藝』といった類の文芸誌とかは
あまり読んでいるほうではまるでないのだけれど、
ここ最近、その形態が変わってきてからは、時折見てみるようになった。

角田光代のいしいしんじについてのエッセイ「もし妖精ではないとしたら」に
「いしいさんは木のうろとか、象の背中とか、もしくは樹齢三千年の巨木のて っぺんとか、
そういうところに住む妖精のような人だ、というのが、私の個人的な印象である」
そして、「日常のずっと先まで含めた世界を、さらに俯瞰しているこの作家の正体が、
木のうろとか巨木のてっぺんに住んでいる風変わりな妖精ではないとしたら、
いしいしんじがいったい何ものなのか、私にはさっぱりわからない」
とあるが、これは、すごい褒め言葉?なんだろう。

ある人が、何ものなのかわかってしまう、というか、
とくに不思議に思えない人には、魅力を感じることが少ない。
もちろん、ただわけのわからない人に魅力を感じるわけではなくて、
ただわけのわからない人は、ただわけがわからないだけで、ぼくには接点はない。
もちろん、あまりにわかってしまう(気になっているだけかもしれないが)人 にも魅力を感じない。
ぼくのなかで、明確には位置づけることができないけれど、
それゆえにこそ、ぼくのなかの「妖精」にも似た部分が踊り出そうとするような
そんな人が好きだ。
せっかくこうして、無理して地上に生きているのだから、
そういう魅力的なわけのわからなさにたくさん出会えたらいいなと思っている。