風のメモランダム

ジャコメッティ/霊操


2006.7.6.Thu.

■ジャコメッティ

芸術新潮7月号・特集は「ジャコメッティ」。
6月3日から神奈川県立近代美術館で、
8月18日から兵庫県立美術館で、
そして10月10日から佐倉市・川村記念美術館で、
「アルベルト・ジャコメッティーー矢内原伊作とともに」展が
開催されるにあたって組まれた特集である。

この特集をきっかけにして、以前から気になっていた
宇佐見英治と矢内原伊作の対談『ジャコメッティについて』(用美社/1983.10.)
矢内原伊作『ジャコメッティとともに』(筑摩書房/昭和44年6月)
そして、前田英樹『絵画の二十世紀/マチスからジャコメッティまで』(NH Kブックス/2004.4.)
に目を通してみることにした。

ジャコメッティの、あのいちどみたら決して忘れることができない細い人体の彫刻、
そして、あの不思議な絵画。
サルトルは、「ジャコメッティは、彫刻をするときには絵描きのように仕事をする。
そして絵を描くときには彫刻家のように仕事をする」と言っていたそうである。

矢内原伊作がジャコメッティに会い、滞在日程を大幅に延長して、
そのモデルをし続けたという話は大変興味ぶかく、
ひたすら描いては消し、消すために描くことを繰り返す。

前田英樹『絵画の二十世紀』のなかに、次のような記述がある。

誰も見るようには描かないし、描くようには見ない。描く、見る、この二つの
行為の間には、もともと大きな隔たりがあり、そこに深淵が横たわっている。
どんな絵も、その深淵に架けられた一個一個の橋であるほかない。ジャコメッ
ティにとって、「見えるものを見える通りに描く」とは、二つの行為をその深
淵に投げ入れて、まったくひとつにすることを意味した。そのためには、見る
ことは視覚の行為であってはならない。描くことは線や色を付け加えていく行
為であってはならない。「消すこと」、ただひとつのこの行為が、その深淵か
ら生まれ、繰り返し試されるようになる。

そういえば、シュタイナーは、ルシファーの影響がなければ、
人間の目は、手のように対象に直接さわってその視覚を得ただろう、というこ とを言っている。
しかし、人間の視覚は現在そのようにはできていない。
手のようにしてものにさわってものを見ることはできない。
しかしジャコメッティは、ある意味で、見るということを、さわって理解する ようにして、
描くことでそれに代えようとしているのかもしれない。

兵庫県立美術館は比較的近いので、足を伸ばしてみたいと思っている。

■霊操

イエズス会をつくったイグナチオ・デ・ロヨラによる
『霊操』(岩波文庫)に目を通している。

シュタイナーがそれを意志に直接働きかける瞑想だとして
現代人にとっては不適切であるとしていることを確かめようというのだが、
その第二週はこうはじまる。
「現世の王の呼びかけは、永遠の王キリストの生涯を観想するために助けとなる」
そしてこの王が家臣にこう語るのを聞く、とある。
「私は異教の国をことごとく征服しようと欲する。これが私の意志である。・・・
私と労苦を共にするならば、私と共に勝利に与るであろう」

そしてその第二週の第4日には、「二つの旗についての黙想」がある。
「キリストの旗とルシフェルの旗を黙想する。一方は、最高司令官である。
我々の主キリストの旗であり、他方は人間の不倶戴天の敵ルシフェルの旗である」

キリストを地上の王のように位置づけ、
王の戦いとともにあれ!と意志に働きかけようとしているところは
否定できないところがある、というのが正直なところである。

問題は、意志に働きかけるのがどうなのかというところだろう。
少なくともぼくとしては、やはりその方向は避けたいと思っている。
やはり「自由の哲学」のような思考から入っていく方向性をとりたいと思っているし、
王として戦うイエスよりも、「友なるイエス」に魂の共感を感じる。
賛美歌で「友なるイエスよ〜」と歌うとやはり涙があふれてくるのである。

『霊操』については、それ以外の理解があまりないこともあるので別としても、
やはり現代において意志に直接働きかける方法をとっているものについては、
注意が必要であることはいえるのではないかと思う。
かつてよくビジネスマン研修として「やるぞー!」とか
「自分が勝利するところをありありと描け!」とかあったけれど、
やはりそういう研修とかは受けたくないものである。
バガヴァットギータのように、戦いを拒否しようとするのだけれど、
あえて戦いを避けない道を選ぶ云々、というのであれば、まだしもなのだけれど。