風のメモランダム

6月12日で9周年/空海/佐藤可士和/蕪村


2006.6.9.Fri.

■6月12日で9周年

ほぼ日は6月6日で8周年というので、毎年思い出すのだけれど、
トポスはこの12日で9周年を迎える。
とはいえ、ほぼ日のように周年でいろんな行事があるというのでもない。
静かな9周年になりそうだ。

■厭世気分の5月からやっと少し浮上か

5月病ともいうが、5月はどうも厭世的、
気取っていえばグノーシス的な地上嫌悪感が濃厚だった。

福田和也の『俗ニ生キ 俗ニ死スベシ 俗生歳時記』(筑摩書房)を読み、
共感と反感の両極を感じたりもすることに。
福田和也の知性と感覚の両極性ということでもある。
極めて快楽至上的でありながら逆にそこに深い悲しさのようなものが漂う。
いわゆる右的なネタを熱く扱いながらそれがそのまま極左のようなものにさえなり、
なおかつそれらを悲しく笑い飛ばすように、戯(ざ)れとなる。
しかしそこに深いこだわりを忘れない。
だから目は離せないが、好きにはなれない。

仲本昌樹の『分かりやすさ」の罠』(ちくま新書 ) 、
『ラディカリズムの果てに 』(イプシロン出版企画)に共感しつつも、
なぜそこまで「バカ」につきあってあげるのか、
そのやさしさと反転した怒りに疑問もでてくる。
仲本昌樹のいっていることは至極まともなことなのだけれど、
それがある意味「バカ」には身も蓋もないことで、
だから逃げ場を失いそうな「バカ」はどこにも逃げ場がなく、
ますますいわゆる「2チャンネル」的になってしまうような気もする。

とまあ、厭世的になりつつも、
ようやくここ数日で気分も浮上気味ではある。

■空海

ここしばらく、久しぶりに仏教が気になってきて、
そんななかで、久しぶりにぼくのなかで空海が浮上してきている。
きっかけは、ちくま文庫の「空海コレクション1・2」の発見である。
そういえば、空海の著作は部分的には参照することはあっても、
その代表的な著作を読み通してみたことはなかった。
いい機会なので、本文に訳、解説付ではあるが、
しばらくつきあってみることにしようと思っている。

空海に関するもので、最初にまとまって読んだのは、
今は角川文庫ソフィアにも入っている「仏教の思想9 空海」を思いつくが
それにならんで、松岡正剛『空海の夢』は外せないだろう。
司馬遼太郎『空海の風景』はおもしろかったがもうひとつ内容が薄い。
調べると、陳舜臣『曼陀羅の人』は評判がよいようだけれど、未読。
ということで早速読み始めているが、確かになかなか。

ということで、9周年でとくになにもしないとは思っているが、
しばらくどこかで空海について追ってみようかという気にもなっている。

■佐藤可士和(pen 2006.6/15)

「pen」の6/15号の特集は「1冊まるごと 佐藤可士和」。
広告制作にたずさわっていると、ステップワゴン、SMAP、極生など、
この佐藤可士和の仕事が気にならざるをえないだろう。
いちどいろいろまとめて見てみようと思っていたところの特集。

最近、広告のクリエイティブには、厭世観とともに
どこかで関心を失いがちだったりもしたのだけれど、
ここいらで少し自分のなかのさび付いたなにかを
磨いてみることにしようかという気になっている。

■俳画は遊ぶ/芭蕉から蕪村へ(芸術新潮2006.7.)

先日来、芭蕉をぼちぼちという感じだったのだけれど、
ちょうど今度は蕪村の俳画が特集されていた。
芭蕉はとびぬけてスゴイけれど、
蕪村のほうがす〜っといつのまにか入ってくるところがある。
気配の魔術のようなところだろうか。

ちなみに、芸術新潮の7月号には、
「『ダヴィンチ・コード』の○と×」という緊急特集もあって、
そんなに面白いわけでもうがっているわけでもないのだけれど、
まあついでに読むにはいいかなという感じ。