風のメモランダム

大山行男:富士三十六景/愛国心/萩本欽一さんの、おもしろ魂


2006.5.26.Fri.

■大山行男:富士三十六景

この「富士三十六景」は小学館から刊行中の『名作写真館』の14巻目。
副題に「千変万化する霊峰の一瞬」とあるが、
収められている息をのむような富士の写真を書店でみて
しばし我を忘れて見入ってしまった。
まさに「霊峰」である。
富士山といえば、浅間神社、木花之佐久夜毘売命。
その姿を垣間見させてくれるようにも思える写真の数々。
ところで、大山行男という名前をはじめて知ったが、これは本名らしい。

■通知票で評価される愛国心

愛国心が学校の通知票で評価される向きが強まっているらしい。
大きなお世話だと思うのだけれど、本気なバカがいるようだ。
愛国心が大事だ、というと、その評価の基準を設けて評点しようとする。

その評点というのは、いったい誰の視点からなのだろうか。
なんだか「小人閑居して不善を為す」とばかりに、
勝手にさせておくと何をするかわからないという発想で、
なんでも標準化して型にはめようという発想はどうにかならないものか。
まるでファーストフードのマニュアルのようにしなければ、
なにもできなくなると思っているらしい。
それで、マニュアルが欠落している箇所にはぼこぼこ穴があいてしまう。
そういう人が教育者をやっているということ自体が、ある種の狂気のように思える。

シュタイナー的にいえば、ミカエルの時代に、
いまさらガブリエルの時代に逆戻りしようとするようなもの。
ナンセンスである。
そもそも国家が教育を管理するということそのものが問題なのに、
教育から思考を奪うような真似をしてどうしようというのだろう。
まるでカトリックのように、人間には霊/精神がないから
それは国家が管理する、とでもいいたいのだろうか。
愛国心を評価するくらいなら、
国家を歌うとか日の丸を掲げるとかいうような些末なことじゃなく、
自分の自由な想像力で文化を創造するためにできることを
おおげさなことじゃなくてもしようとしているか、のほうが重要じゃないだろ うかとかも。

■「萩本欽一さんの、おもしろ魂。」

今やゴールデンゴールズを率いている萩本欽一と糸井重里との
ほぼ日での話が面白い。
http://www.1101.com/kinchan/2006-05-25.html
その萩本欽一のイチオシが日本ハムの新庄らしい。
管理野球のような感じの濃厚な日本の野球界のなかで、
たしかにずっと見ていてもあきないキャラクターである。

ぼくはどうも野球とかサッカーとかあまり興味はなくて、
実際に、見ていても時間がもったいなくなるので、
テレビでも長い時間つきあうことはあまりないのだけれど、
yuccaのご贔屓のダルビッシュと新庄のおかげで、
このところ面白く野球中継を眺めていたりする。
当然のごとく日本ハムを贔屓にしてしまうわけで、
そういえば、広島にいたときに球場が職場に近かったので
つきあいで球場に缶ビールをもってでかけて広島を応援していたりしたときよりも
もっと、なんか、ファン意識のようなものがでてきているのがわかったりする。
小笠原の古武士のような顔をみて、かっこいいと思ったり。
ヒルマン監督の表情や風情がとても知的でなかなかいいとか。

しかし、新庄が襟をだしただけで、
青少年に悪影響を及ぼすというのは、あほらしい。
たかが、スポーツじゃないか、戦争抑止力くらいにしか役に立たないなら、
それくらい遊んでもいいじゃないか、そのほうが青少年を自由にさせる。
とかいうような愚痴をいいたくもなる。
萩本欽一が仕掛けているようなことが
取り入れられていくと面白くなるんだがなあ・・・、と溜息。