風のメモランダム

大山/はじめての武満徹


2006.5.1.Mon.

■大山

先々週と昨日、蒜山を抜けて大山周辺をドライブする。

先々週は、まだ雪もかなり残っていて、
気温も低く風も冷たく人も少なかったが、
昨日は気温も穏やかで桜も咲き、
GWに入っているせいか人も比較的多かった。

今年は桜を1ヶ月間かけて楽しむことができた。
岡山は全国的にみても桜の開花が遅かったのと
昨日のように今ようやく咲こうとしている山の桜にも出会うことができた。

大山神社にも5年ぶりで出かけることができた。
5年前に購入した、龍が水晶を抱えているストラップが
たびたび水晶が外れたりするようになっていたので
社務所でふとおもいついて購入しなおすことに。
なぜかはよくわからないがずっと使っていたのはこの際お返しすることに。
今度は、金の龍と銀の龍のセットである。
金の斧と銀の斧をいっしょにもらったようで少しうれしい。

■はじめての武満徹

芸術新潮の5月号の特集は「はじめての武満徹」。
没後10周年にあたって、いろんなところで武満徹が出没する。

武満徹は作曲家だけれども、
作曲家という枠を超えているところがいい。
それに、小さく細っこいにもかかわらず、
なぜかビジュアルもまたいい。

特集の冒頭のところに、木之下晃の撮影した
横顔と両手をあわせた手がモノクロが載っている。
「武満さんを撮っていていつも思うのは、
指がきれいだということ。手の美しさ。
この表情豊かな手が、武満徹自身を表現していると思う」とある。

年を経るごとに、ぼくの見る人の部分もさまざまに変わってきたような気がする。
さいきんとくに思うのは、その手の表情のようなところが気になるということである。
「美しさ」というのも、いぜんはかなり平板なそれしか感受しにくかったのが
しだいにそうしたところのほうにまで目がいくようになったようである。
その人がその人であるという品格も、どこかそういうところのほうに
表現されることが多いのではないかというのがわかるようになってきたということか。

だから携帯で話しながら歩いているのを
とくに恥ずかしそうにもしていない人の姿などからは
そういう品格が香ってくることはまずない。

煙草にしてもそれをそれがその人の品格にそうものであれば
それをふかしていてもとくに嫌悪感もなく
それがその人らしさを表現しているという感じがするが
問題はそれが品格の下劣さを表現しているときだろう。

つまりは煙草が問題であるというのではなく、
煙草に限らずすべてはその人の品格次第であるということ。
美意識ということに収斂するもの。
もちろん言葉にもそれは随所にでてくる。
内容を云々する以前の、言葉そのものからうける感触とでもいうか。