風のメモランダム

Invitation/中沢新一『芸術人類学』


2006.4.12.Wed.

■Invitation

「ぴあ」が発行している雑誌「Invitation」がけっこう面白い。
基本的にはさまざまなメディアからの情報を
ピックアップして編集している雑誌だけれど、
マニアックにならないでさらりとそれぞれのテーマが扱われているわりには、
それぞれのピックアップがけっこういい線いっていて、
まさに「Invitation」になっている。

5月号の特集は「マンガという仕事」。
いま、漫画界では見過ごすことのできない浦沢直樹と
宇多田ヒカルの対談が掲載されていたりする。
ちょっと思いつかないような切り口の対談で、ちょっとびっくり。
そして、そこでの不思議な二人の共鳴。

宇多田ヒカルが「ミュージシャンなんて絶対嫌だな」と思っていたのに対し、
浦沢直樹が「全然、マンガ家になりたくはなかった」というのも面白い。
また、宇多田ヒカルが
「そもそも曲を作るとき、伝えたいこととかメッセージとかないんです。
まったくないの。皆無なの。」に対して、
浦沢直樹は、
「僕もそうですね。何もないです。
最初に、予告編のような風景が浮かぶだけ。」

■中沢新一『芸術人類学』

『カイエ・ソバージュ』全5巻(講談社選書メチエ)で展開されていた
「対称性人類学」という「ヒトの心の働きを探るための新しい方法」の
いわば概観を提示しているというのがこれ。(みすず書房)

ふつうのつまらない「サイエンス」に比べれば格段に刺激的だし、面白い。
基本的にこうした思考方法というのは重要で、欠かすことのできないところがあるが、
中沢新一の、この「来るべき野生のサイエンス」は
どこか過去向きな印象が拭えないのはどうしてなんだろう。

中沢新一は、基本的に過去の叡智や「宗教」というのが好きで、
それをいかに再発見して「新たな知」へと方向づけるかというのが主眼のようである。
もちろん、過去の叡智というのはそれなりに巨大で圧倒的なのはわかるのだけれど、
そのための「修行」やら、そこからくるヴィジョンなどを
あまりにありがたがりすぎるところがあるように思える。
必要なのは、まさに神秘学なのだと思うのだけれど、
凡庸な知性ではなく、むしろ知的過ぎるがために、
今の通常の思考方法に欠けてしまっている思考方法を提示する必要から
なんだか難しそうなプレゼンテーションになってしまっているような印象がある。

とはいえ、たしかに現在通常に使われている固定的な思考形態では、
ちょっとばかり立ち行かなくなっているわけで、
いわゆる学問上、それを打開するための最初のステップとしては重要な試みで、
これでも一大飛躍だというのはよくわかる気もする。

しかし、「芸術人類学」というときの「芸術」というのはもうひとつぴんとこない。
中沢新一によれば、脳内の「ニューロン構造」のつくりかえによって
「比喩や象徴を生み出すことのできる、異質なものの重なり合った
『表現』をおこなえる心がつくられるようにな」り
「それといっしょに芸術が発生した」とあり、
「宗教と芸術の根源はひとつ」だという。

芸術はそういう洞窟内での体験と密接に結びつきながら生まれ出ています。
宗教と芸術の根源はひとつ、と言われることがありますが、その根源とは
超越性をそなえた「流動する心」そのものにほかなりません。私たち現生
人類の心の構造そのものが、宗教と芸術を生み出したのです。

鶏と卵になるのかもしれないけれど、
脳の構造が変化したからそこに「流動する心」が生まれたというのは、
パソコンの機能が進化したから新しいソフトが使えるようになったようなもので、
それは脳の機能と構造の側面からみたならばそういうこともいえるのだろう。
しかしその変化が、宗教と芸術を生み出して、
それを「芸術ー人類学」として探求していくというのはいまひとつぴんことこない。
「芸術」という名称をつける必要などあるのだろうか。
それとも単なるムード的なものか。