風のメモランダム

とりぱん/論語と聖書


2006.3.31.Fri.

■とりぱん

以前、舟沢さんに教えてもらったモーニングに連載の
とりのなん子『とりぱん1』(講談社)が単行本になった。
「とりぱん」というタイトルは最初よくわからなかったし、
それについてはとくに解説がないものの、
どう考えても「鳥」のための「パン」以外ではなさそうだ。

鳥の図鑑を見るのは楽しいし、
実際に鳥を観察するのはもちろん面白いけれど、
こうして、自分の生活のなかで関わり合っている
さまざまな鳥たちの個性に笑いのなかで親しむはなかなか。
作者は自宅の庭で鳥たちを餌付けしたりしているが、
ぼくも自宅に庭があったら・・・と思う。

さて、作者のとりのなん子というのは、
いったいどんな人だろうと思っていたけれど、
「会社員生活でストレスがたまりすぎ、漫画家を目指すことを決意して
なんのアテもなく退職」というあたり、その人柄もふくめて
なんだか近しい感じをもってしまう。

■論語と聖書

吉川幸二郎は『論語について』のなかで述べているそうだ。
「私はいつも考えるのですが、『聖書』を読むことによって『論語』は
よりよく理解される。また逆に、『聖書』だけでは『聖書』は完全には
読めないのではないでしょうか。……
いろんな書物を読みうるわれわれとしては、
そういう点からわれわれ日本人の読書の中に『論語』を含めておいた方が
賢明なのではないかと考えます…」

『聖書』と『論語』といえば、山本七平である。
山本七平には『論語の読み方』という著書もあって、
久しぶりに読み返しているところなのだけれど、
両方の視点を持ち得ているからこそ可能になる視点はありそうだ。

若い頃は、『聖書』も『論語』もダメで、
その両方がでてくるとただ煙たくなってしまうだけだっただろうが、
この歳になると、妙に納得してしまうところがある。

孔子は鬼神を語らなかったが、
鬼神を語らないということと
鬼神に無知であるということとは違うことは押さえておいたほうがいい。
仏陀が死後の生等を語らなかったのはそれを否定したのではないように。
儒教の儒はシャーマン的な意味をもっている。
しかしそれを過去向きでとらえないということが重要なのだ。

『聖書』と『論語』を今読むと、
ほんとうに、地上を歩む足腰の強さの必要性を思う。
そして、自分がいかにその足腰が弱いかに嘆息してしまう。