風のメモランダム

長谷川泰子『中原中也との愛』/スピリチュアリズムと神秘学


2006.3.29.Wed.

■長谷川泰子『中原中也との愛』

長谷川泰子(村上護・編)『中原中也との愛/ゆきてかへらぬ』(角川文庫)を読む。
中原中也と暮らし、そこから小林秀雄のところへと移り、
そして小林秀雄が逃げ出したという長谷川泰子というのは
いったいどんな人だったのだろうということには興味をもっていたが、
70歳になった長谷川泰子が思い出を語っている著書があることは知らずにいた。
(亡くなったのは1993年、88歳のときだということだけれど)

小林秀雄といっしょに暮らすと長谷川泰子は過度の潔癖性となって
とてもやさしい小林秀雄に対して「ワーワー」になり、
小林秀雄にとっては「まるでシベリア流刑」のような状態になったという。
面白いことに、魯山人に会って酒を飲むと今度は泣いてばかりになったようだ。
小林秀雄と魯山人というのはどこか似ているところがあったりもするのかもしれない。
中原中也とはすぐに喧嘩になったというのだけれど。

若き長谷川泰子が心の赴くままに(おそらく懸命に)生きた周辺には
昭和のはじめのころの文学者たちがいて、
この語りをまとめた村上護との交流のなかでも
あるときいきなり「ジィちゃんのところに一緒に行こう」と
「泣く子も黙る」青山二郎のマンションを訪れたりもしたという。
こんな人だったらこそ、中原中也から愛され続けたのかもしれない。

しかし、人間というのは面白いなあとつくづく思うようになった。
そう思えるようになっただけでも、生まれてきた甲斐があるように感じている昨今。

■スピリチュアリズムと神秘学

江原啓之の著書にいつくか目を通してみている。
その霊的世界観や基本的姿勢、包容力のある人格など
こういう人が現代の日本の同時代に生きて
活躍しているということに一種感動を覚えてしまうところがある。

大上段に、政治を語ったり、平和を語ったりするような姿勢ではなく、
きわめて日常的なところから、しっかりと個々人の生き方に
ある意味、きわめて哲学的なところから、もちろん健全な霊的世界観に基づいて
アドバイスをしていくという基本姿勢に共感を覚える。

ぼくの乏しい霊的な知識に照らしてみても、
そのほとんどがぼくの理解や理想とする姿勢と非常に近いところがある。
しかもなにより、組織化、集団化に向かわないところがいい。
そこが、宗教や各種団体とは違う良さであって、
権威的なさまざまなあり方から自由でありえている。

シュタイナーの神秘学ともその霊的世界観において通底しているところが多いのだが、
もちろん、スピリチュアリズムと神秘学とはその射程が異なっている。
ある意味、神秘学はスピリチュアリズムを包摂しているところがあるのだけれど、
スピリチュアリズムがいわば人生哲学的な姿勢を持っているのに対して、
神秘学はやはりもっと宇宙論的な広がりをもっていて、
しかもきわめて学問的な部分を強くもっているのだといえる。

そういう意味でいえば、スピリチュアリズムの基本的な内容というのは、
きわめて常識的なところでもあるといえるので、
基本的な理解があるとすれば、とくにどういうことはない内容である。
基本的な理解が欠けている場合があまりに多いので問題で、
江原啓之も著書で述べているように、
いちばんいいのは、こういうのが不要になることなのである。

なぜシュタイナーの神秘学なのか、というのは、
ある意味、それはスピリチュアリズムが不要になったところから
出発しているところがあるというところである。
霊的世界観はあたりまえのことで、重要なのは、
そこから、哲学や通常の科学を超えた「ポエジー」が
展開していくということなのだろうと思っている。

逆に言えば、霊的世界観をきちんと理解しないまま
シュタイナーを読もうとしても、まずは理解が難しいだろうということもいえる。
だから、霊的なものを排除したシュタイナー教育とかいう
奇っ怪な現象さえがでてきたりもするのだろう。