風のメモランダム

 

山本七平『小林秀雄の流儀』/キリスト衝動の現代


2006.1.1.Sun.

■山本七平『小林秀雄の流儀』
 
ふりかえってみれば、同時代的に日本でもっとも信頼を置いていたのは
山本七平だったとということをあらためて確認することになった。
すでに10年以上前に文庫でていたこの『小林秀雄の流儀』。
そのときには軽く読み飛ばしていたものを
小林秀雄に近づくためのひとつのガイド役として再読。
思わぬ「再発見」をすることになった。
 
解説の佐伯彰一による解説のことばを使って言えば、
「『パウロ光学』の下に、ドストエフスキー作品を照射し直し、さらには
『キリスト教の光学』の下に、小林秀雄の生涯を検討するという大作業」
ということになるが、おそらくその解説者のいう以上に、
その「パウロ光学」「キリスト教光学」は深い意味をもっていたのだろう。
 
「ドストエフスキーの生活」を、そして「罪と罰」や「悪霊」について書かれた
小林秀雄の「批評」の主軸に、あの「パウロ」の「回心」を置いてみるなど、
ぼくにとっては、新年早々、ちょっとした小さな「回心」の出だしとなった。
(とはいえ、それをパウロのそれとを比べようなどとは露ほども思わないが)
 
■キリスト衝動の現代
 
ちょうど、シュタイナーの『エーテル界へのキリストの出現』を
言葉通りの意味で魂をふるわせながら読んでいるところでもあるのだが、
ドストエフスキーにも、小林秀雄にも、もちろん山本七平にも、
「キリスト衝動」の影響が深く及んでいるのだということは明らかだろう。
 
現代におけるさまざまな真性の言葉、活動等々には、
その現れ方はさまざまであろうが、
「キリスト衝動」が及んでいないものはないだろう、
というところから見てみる必要があるのではないだろうか。
少なくとも精神科学に関心を寄せる者にとって、
それが「見えない」としたら、
それはすでに精神科学の名に値しないともいえるのだろう。
それを、通常イメージされる「キリスト教」や「キリスト」等の名の下に
とらえるというような愚は、すでに精神科学的ではないのはもちろんのことだが。
 
新年にあたって、『エーテル界へのキリストの出現』から
そのことの確認の意味も込めて、引いておくことにしたい。
 
	キリスト衝動は自由の衝動です。キリスト衝動の作用は、キリスト衝動が
	人間の心魂の外で働くときには示されません。キリスト衝動の本当の作用
	は、その衝動が人間個人の心魂のなかで活動するときに現れます。
	・・・
	キリスト衝動には、地球周期の終わりまで、あらゆる人間に語りかける力
	が内在します。しかし、そのためには、キリストの福音を各々の時代にふ
	さわしい方法で、前進する人間の心魂に告げることが可能にならねばなり
	ません。私たちは聖霊降臨祭衝動の力を感じると、「私は君たちのところ
	に、世界の終わりまでいる」という言葉を傾聴する義務を感じるはずです。
	キリスト衝動に満たされると、キリスト教の創始者が発する言葉を、いつ
	の時代にも聞くことができます。キリストはいつも人間のところにいるの
	で、あらゆる時代にキリストが語る言葉を、聞こうとする者は聞けます。
	・・・
	キリスト教は無限に豊かなものです。しかし人間は、キリスト教が最初に
	告げられた時代に、無限に豊かで満ちてはいませんでした。今日、「人類
	はすでに、キリスト教の無限の充満と無限の偉大さを理解するにいたって
	いる」というのは、なんという思い上がりでしょう。
	「キリスト教の叡智は無限だ。しかし、その叡智を受け取る人間の能力は、
	最初、制限されている。その能力は次第に、完全な、成熟したものになっ
	ていくだろう」と言うのが、キリスト教的な謙虚さです。
	・・・
	キリスト衝動は教えや教義ではなく、心魂の最も内で体験されねばならな
	い力です。この衝動によって、なにかが与えられました。キリスト衝動を
	輪廻転生の教えに関連させると、キリスト衝動に含まれているものを、私
	たちは理解できます。
	・・・
	霊が個体化されて私たちの心魂のなかで目覚めるのを、私たちは感じます。
	私たちのなかで、もっとも意味深い霊の特性が目覚めます。霊の永遠性で
	す。霊的なものに関与すると、人間は自分の不死と永遠を自覚します。
 

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