風のメモランダム

 

大殺界の風景


2005.11.19.Sat.

■大殺界の風景
 
このところ少しばかりトラブルめいたことが起こる。
大殺界らしい。
占いをそれなりのレベルで信じていないわけではないし、
興味をもった占いはなぜそういうことになるのか
それなりに理解したいとは思っている。
とはいえ、自分を占ったそれをほとんど気にしていない。
起こることは起こるだろうし、
起こったとしてもそれは必要なことなのだから。
そしてあとはその都度納得できるかどうかが肝心である。
納得するためにはそれなりのヨイショがいるときもあるが
ある意味ではその「ヨイショ」のために何かが起こるともいえるのである。
だから、起こることに対してわざわざ占うというのは面倒である。
肝心なのは「受け入れる」ということであり、
占おうが占わないでいようが「受け入れる」ことができればよし
そうでなければ同じことなのだ。
そしていちばん必要なことは、占いではわからないこと、
つまり自由においてなにができるかということだ。
 
先日、遠出の途中で車がぷすぷすぷすん!と止まって動かなくなった。
さあ困ったぞ!状態になったが、
後続車の方が親切にも少し押してくれて路肩に止めることができた。
多謝多謝。
そしてすぐ近くのガソリンスタンドの人が
親切に近くの自動車整備所を教えてくれた。
プラグの調子が悪いらしいだけのようなので、
そこまではなんとか車をだましだまし動かすことができた。
その自動車整備所では合するプラグの在庫がちょうど適必要な数だけあって、
(逆にいうと必要数以上にはなくて、在庫があったのはラッキーという)
すぐに車は息を吹き返した。
その人のさわやかな笑顔が印象深かった。
車が止まってからその間、20分と少しだろうか。
その短いトラブルと解決の間の物語。
ごくごく小さなことだけれど、さわやかな笑顔を得ることのできた喜び。
 
その遠出の目的は、yuccaの実家にある柿を収穫すること。
たいした量ではないが、草の生えた庭の数本の木には
すでにかなり熟した柿が実っている。
よっし、収穫だあ!と思ってとりかかるが思ったより困難である。
手の届かないところが多く、脚立などを置く足場は不規則な斜面である。
それでもなんとか収穫を続けていたら、熟した柿の実が頭の上にぼとり。
シャツなどもそのじゅくじゅくの実がべっとり。
しかしそのべっとりのおかげで大胆になることができ、
その柿右衛門状態のままで収穫を敢行。
体中に草の実などをまといながら、久しぶりにワイルドな気分を味わえた。
うれしくもないが、おもしろくはあった収穫祭。
次の日には、蜜柑の収穫祭もささやかに敢行!
 
しかし・・・またもやトラブル発生。
今度はこのパソコンのキーボードのキーのひとつが剥がれているのを発見。
こうしてキーを入力するぶんには支障はないが、やれやれという気分にはなる。
これはあまり面白くはないが、きっとなにかのサインなのだろう・・・。
どちらにせよ、こうしたトラブルの多発するときは
アストラル体の鍛錬にとってもいいようである。
こういう機会をちゃんと自分の養分に変えることができるかどうかが鍵。
 
■吉田篤弘『つむじ風食堂の夜』
 
クラフトエヴィング商会は、ぼくのお気に入りのひとつ。
吉田篤弘のお話も大好きで、読みそびれていたものが
今回ちいさくかわいらしい文庫(筑摩文庫)になった。
手品師の息子の話。
ぼくは実は、心のなかではこういう世界に生きていたりする。
でも、実際に生きているのはけっこうかけはなれた世界だ。
そのギャップというのがひょっとしたらいいのかもしれない。
しかしそのギャップというのはけっこう疲れる。
疲れるためにぼくは生きているのかもしれない。
 
■石田衣良『てのひらの迷路』
 
石田衣良は『池袋ウェストゲートパーク』以来、おなじみ。
世代も比較的近く、感覚も似ている。
その似ているところがこのショート集では心にじんと響く。
 
そのなかに引きこもりの話があった。
『池袋ウェストゲートパーク』にもあったように、
何度か引きこもりの話を書いたことがあるらしい。
 
石田衣良の描く引きこもりの話は決してひとごとではない。
たぶん環境がととのえばぼくだってそうなっていたことだろう。
残念ながらぼくは大学の途中から自活しなくちゃならなくなって
食っていくことのほうに否応なくシフトしてしまうことになった。
就職する気とかもなかったのに就職して以来ずっとコンスタントに働いているのは
食っていく必要性というぼくの月=山羊座的な小心さゆえのことだろう。
小心さへのちょっとした自虐とその効用。
でもさいわい太陽は水瓶座だから気楽さは失わないでいることができる。
本書のなかの台詞のひとつを使って言えば
「仕事なんて、あなたにはどうでもいいことだから」ということになる。
もちろんいい加減に仕事をしているというのではないが、
実際のところ、そんなに使命感のようなものを感じたりはしないということだ。
(もちろん、使命感を感じられたら素晴らしいだろうが、なかなかむずかしい)
そしてそれなりの結果を出す役割はある程度演じながらも、
とくにそれでどうだとかいうのはないのだ。
おもしろいことは、ほかにやまのようにあるのだから。
もちろん、仕事を通じて得るものというのは
さまざまな試練などもふくめたくさんあるのだが。
迷路には迷路の意義があるというわけだ。
 

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