風のDiary
2012.4.30.Mon.
森博嗣『ブラッド・スクーパ』~岡倉天心『茶の本』

1996年に発表された『すべてがFになる』というミステリーを
ほとんどリアルタイムで読んでいたはずなのに、
(ミステリーをあまり読まないからなのだろう)その後ご無沙汰で、
ぼくが森博嗣とほとんど同世代だということに気づいたのは、
昨年、アニメ映画にもなった森博嗣の「スカイ・クロラ シリーズ」を読んでからだ。
たまたま観たアニメの『スカイ・クロラ』が面白かったものだから、
装丁も気に入ったシリーズをまとめて読みふけった。

それで昨年、あらたにはじまった「ヴォイド・シェイパ」シリーズを読むことになった。
「スカイ・クロラ シリーズ」が戦闘機パイロットをする人間が主人公なのに対して、
今度は、物心つく前から師と二人だけで剣の修行をしながら成長し、
師の死後、はじめて山を下りて世の中でさまざまなことを考え学んでいく若い武芸者が主人公。
まるで哲学小説のような作品。
ふつうだったらわざとらしくで鼻につきそうなものだが、
それがなく、ついつい自分と重ね合わせながら読み進めてしまう。

先日出たばかりのシリーズ第2巻目『ブラッド・スクーパ』の各章のはじめには、
岡倉覚三(岡倉天心)の『茶の本』からの引用が置かれている。
最初に読んだのはもう20年ほど前のことになるが、久々読み返してみている。
『茶の本』というよりは、禅の本のようで、むしろそれが新鮮に感じる。

ここ数年、かつて読んだ本を読み返してみることが多く、
その都度、かつての数倍もの感銘を受けたりする。
(かつての感銘をただ忘れているだけのことかもしれないが)
新たなものに開かれることを怠らない限り、
年を重ねるのもいいものだと思う。

さて、『ブラッド・スクーパ』の第3章のはじめに置かれている引用は次の通り。

  禅の主張によれば、事物の大相対性から見れば大と小との区別はなく、一
  原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極地を求めんとする者はおの
  れみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。禅林の組織
  はこういう見地から非常に意味深いものであった。始祖を除いて禅僧はこ
  とごとく禅林の世話に関する何か特別の仕事を課せられた。そして妙なこ
  とには新参者には比較的軽い務めを与えられたが、非常に立派な修行を積
  んだ僧には比較的うるさい下賤な仕事が課せられた。

修行が進めば進むほどに、日常的で下世話なものに関わることが課題になる。
なかなかどきりとする示唆である。
世の中の常識でいえば、偉くなると、日常的なことから離れて、
人に指示や命令をしたりするような感じなのかもしれないが、
実際のところは、逆であってこその進歩?なのだろう。

そういえば、マネージメントの名著のひとつに
『サーバント・リーダーシップ』というのがある。
(ロバート・K・グリーンリーフ著/英治出版2008.12.発行)
「サーバント」というのは「召使い」「奉仕」である。

この「リーダーとしてのサーバント」という発想は、
ヘッセの『東方巡礼』からのものらしい。
レーオという人物がある旅をしている一団の雑用をしていたが、
そのレーオが突然姿を消し、一団は混乱状態になり旅が続けられなくなる。
「旅の一団のひとりである語り手は、何年か放浪したのちにレーオを見つけ、
あの旅を主宰した教団に行くことになる。そこで彼は、サーバントとして
知っていたレーオが、実はその教団のトップの肩書きを持つ人物で、
指導的立場にある偉大で気高い「リーダー」だったと知る」。

とはいえ、立場の上の人が、まるで精神修養しています的に
トイレ掃除とかしていたりするのもまたなんだかなあという感じもする。
できれば、市場でヒヨコ売りとかもするグルジェフのようなのもいいかもしれないし、
なにより、日常的なところで自分のことをちゃんとするというのが基本だろうと思う。
つまり、自分が自分のサーバントたりえているかということ。
自分のサーバントであることができれば、
自分という旅団は決して混乱したりはしないだろうから。