風のDiary
2012.3.16.Fri.
吉本隆明、亡くなる

吉本隆明が、今日亡くなったらしい。87歳。
よしもとばななのお父さんというほうが今では有名かもしれないが。

ちょうど昨日から、新刊の大澤真幸『近代日本思想の肖像』
(講談社学術文庫/2005年に『思想のケミストリー』として刊行されたものの文庫化)を
読んでいて、最初にとりあげているのが、吉本隆明だった。
「<ポストモダニスト>吉本隆明」。

吉本隆明については、ここ数年「ほぼ日」でも
糸井重里がさまざまに紹介していたりもする。
とくに「親鸞」を語ったものについてなど。
糸井重里にとっては、特別な思想家だということなのだろう。

ぼく自身、学生時代以来、30数年ほど、
著書や関連書など、おりにふれて目にはしていて、
その気取らない気っ風の良さや生活感など、
人としての印象としてはとても好感が持てるのだが、
その「思想」ということになると、印象が薄い。
ちょっと頑固な横町のおじいさんという感じは大好きだし、
権威的なものや権力組織を否定的にとらえたり、
スノッブなものをこき下ろしたりする部分など、そりゃあそうだろ、としか思えないのだが、
(そうした意味では、そう言ってくれる人がいたほうがいいのだけれど)
あえて「思想」でもないだろ、という感じだろうか。
それにオウム真理教のような過去指向の歪んだ霊性への無批判などもあって、
そこらへんのある種の、あえていえば神秘学的な視点への無理解のほうが気になったりもする。
そういうことも含め、むしろぼくには、
多くの人が吉本隆明をとりあげているということのほうが、「気になる」部分だといえる。
どうしてそれほど吉本隆明の言っていることを「気にする」のだろう、と。

で、ちょうど読んだばかりの(ちょっとわかりにくい論だが)
大澤真幸「<ポストモダニスト>吉本隆明」からのちょっと長めの引用で(上記P.33P-52)、
吉本隆明の視点を少しクローズアップして、
そこらへんの「気になる」部分の「なぜ」をあらためて見ておきたい。

この引用部分だが、「自己幻想」「共同幻想」「対幻想」といった有名な視点とも関係しているのと、
ある意味「自我」をめぐる迷路?についての示唆としても少し参考になるかとも思う。
たぶんここらへんのところで、吉本隆明は、
オウム真理教について錯誤した見解を生じさせたような視点を余儀なくされたのかもしれない、とか。
吉本隆明が、射程にできなかったものが見えてくるところでもあるように思う。

   吉本隆明は真の<ポストモダニスト>である。あるいは、少なくとも<ポスト
  モダニスト>たりうる可能性を秘めていた。
  (・・・)
   とりわけ、普遍的な妥当性を要求する価値や規範の虚妄を暴きだし、理性の普
  遍性を懐疑するという、「ポストモダニズム」の特徴的な態度こそは、モダニズ
  ムに由来するものであろう。モダニズムとは、伝統的な価値や規範が、それぞれ
  のローカルな共同体に根ざす特殊性にほかならないことを認識したときに、思想
  的は成立するのだから。
  (・・・)
   「モダニズム」と「ポストモダニズム」は、ぐるぐると循環するような閉回路
  を構成している。この回路を規定しているのは、伝統の無条件の権威が失われた
  ことによって生じた、価値や規範の相対性である。ところで、吉本が「マチウ書
  試論」で克服しようとした当の課題こそ、普遍性を失った思想の相対性であった。
  1950年代半ばの段階で、彼は、相対性に対して、「関係の絶対性」を対置し
  たのだ。もし、これが思想や倫理の相対性を超克する視点を実効的に提起するも
  のであるとすれば、ここにおいては、モダンの裏面としての「ポストモダン」と
  は異なる、真の意味での<ポストモダン的>断絶が生じている、と見るべきでは
  ないだろうか。
  (・・・)
   単に、一般性の水準を上昇させていくということによっては、思想の普遍的な妥
  当性には到達できない。現れとしての他者に、他者としての他者性に、具体的に直
  面することの内にしか、<普遍性>はありえないのだ。
  「関係性の絶対性」とはまさにこのことである。現前する他者との関係を還元不可
  能な形式で保持することの内にしか、思想の妥当性はない。
  「対幻想」という概念の両義性を、つまりこの概念の可能性と限界とを、こうした
  文脈で再評価することができるだろう。まず、固有の意味での共同幻想は、つまり
  自己幻想とも対幻想とも独立した共同幻想は、否定的に存在する他者に帰属する幻
  想として定義することができるだろう。具体的に現れる他者との関係において保持
  されるのは、対幻想である。「関係の絶対性」という配備において獲得された洞察
  は、対幻想の概念の中にひそかな反響を示す。
   とはいえ、対幻想の概念には限界もある。対幻想において、人は他者の他者性を
  抹消するような形式で他者と関係するからである。それに対して、真の他者、他者
  たる限りでの他者は、私と同化することを頑強に拒み、何者かとして同定すること
  不可能な何かとして現前するはずだ。『銀河鉄道の夜』の旅の最後にジョバンニと
  カンパネルラは、宇宙の中にあいた真っ暗な穴、「石炭袋」と呼ばれる穴に出会う。

    ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまひました。天の川の一と
    こにおほきなまっくらな穴が、どほんとあいてゐるのです。その底がどれほど
    深いか、その奥に何があるか、いくら目をこすってのぞいてもなんにも見えず、
    ただ目がしんしんと痛むのでした。

   ついで、ジョバンニの決意が、今やあのような大きな闇でもこわくはなく、「み
  なんのほんたうのさいはい」(<普遍性>)を探すためには、その中にだって行く
  のだという決意が、語られる。この何ものとしても同定しえない宇宙の穴こそ、つ
  まり(<私>に帰属する)宇宙の中では何ものでもありえない穴こそ、他者の隠喩
  ではないか。他者、現れとしての他者とは、こうした空虚そのものの直接的な物質
  化である