風のDiary
2012.3.12.Mon.
ニガヨモギから多くの甘い果実を

昨日3月11日、東北大震災から1年。
「高知バッハカンタータフェライン」の第15回演奏会、
バッハ『ヨハネ受難曲』の素晴らしい演奏を聴く。
http://homepage.mac.com/kazenotopos/topos2/sinpigaku/KochiBachKantaten2012.html

ぼくのなかの深い深いところで何かが響き続ける。
なによりも限りない鎮魂であり、
さらにそれにとどまらない未来への捧げ物として。

一年前の大震災でさまざまなものが失われたが、
ぼくにとってこの一年ずっと注意深くあり続けたいと思ったこと。
それは、むしろ得られたもの、得られるだろうものだった。
失った多くのものは、失われたままでしかないだろうし、
再び取り戻せたとしても、それだけでは決して未来ではない。

どんなに政界、財界、マスコミが。
異様なまでに原発の危険性を隠蔽し続けたとしても、
少なくともだれもがそこから目をそらすことはできなくなっている事実。
もしあの災害がなかったら、今でもまだ、
多くの人たちはその危険性に目を向けることが少なかっただろう。
悲しいことに、なにかが起こらないと
気づけないもの、気づきたくないものがある。
だから、なにかが起こるということは、
そこから目をそらしてはいけないということなのだ。

『ヨハネ受難曲』第19曲のバスのアリオーソの歌詞に
「ニガヨモギ」がでてくる(当日プログラムの訳詞より)。
「ニガヨモギ」といえば、チェルノブイリ・・・。

  よく見なさい、私の魂よ、不安にふるえる満足と、
  苦い喜びと、半ば締めつけられたような心で、
  イエスの苦しみの中の、この上なく尊い宝を。
  イエスを突き刺す茨の上に、
  天の門を開く鍵の花(サクラソウ)が咲く様を。
  お前は、イエスの味わうニガヨモギ(苦痛)から、
  多くの甘い果実を摘み取ることができる。
  だからお前は、イエスから目をそらしてはいけない!

ニガヨモギは苦痛であるが、
そこからしか得られない「甘い果実」のことを忘れてはならないだろう。
『ヨハネ受難曲』では、「復活」が表現されてはいないのだけれど、
だからこそ、私たちのひとりひとりに撒かれた光の種を育て、
「甘い果実」を実らせることを示唆しているようにぼくには感じられる。

私たち人間が自我をもったということも、
ある種の「ニガヨモギ」のようなものかもしれない。
その「ニガヨモギ」を不要で、
それさえなかったならば・・・という人もいるだろうが、
それを超えていくためにせよ、まずは「ニガヨモギ」を味わうことが求められる。
そうでなければ「甘い果実」を得ることはできないのだから。

★参考/ウィキペディア「ニガヨモギ」より
近縁種にオウシュウヨモギ Artemisia vulgaris があり、ニガヨモギよりは弱いが防虫剤として使われる。
この種はウクライナ語の「チョルノブイリ」 (чорнобиль / chornobilʹ) でも知られ、
チョルヌイ (chornyj) は「黒い」、ブイリヤ (bylija) は「草」の意味で、直訳すれば「黒い草」となる。
一方、ニガヨモギはポリン (полин / polin) という。
チョルノブイリはニガヨモギとともに、原発事故で有名なチェルノブイリ(ウクライナ語ではチョルノブイリ)
周辺で自生し、その地の地名になっている。なお、ロシア語では、オウシュウヨモギは「チェルノブイリニク」
Чернобыльнык Chernobylʹnyk)、ニガヨモギは「ポルイニ」(Полынь Polynʹ)である。
これらが混同され、しばしば「ウクライナ語(あるいはロシア語)でニガヨモギはチェルノブイリ」
などと言われることがあるが、正確ではない。
新約聖書・ヨハネの黙示録では、苦よもぎという星が落ちて多くの人が死ぬという預言がある。
ただし、これは正確にはニガヨモギではなく、Artemisia judaica だとする説が有力である。