風のDiary
2011.12.6.Tue
ラジオの時間

映画の『ラジオの時間』の話ではなく、ネットでラジオの話。

ネットやスマホで聴けるようになったのもあって、
このところ少しだけラジオを聴くようになっている。

たとえば、NHKFMで毎月1回「懐かしい未来」という
大貫妙子がパーソナリティでやっている番組に
細野晴臣がゲストで出ているというので聴く。
大貫妙子も細野晴臣もどちらもわりとぼそぼそと
モノローグのように話すのが心地よい。
詩人の小池昌代の「詩を読んで生きる 小池昌代の現代詩入門」
(カルチャーラジオ/NHKラジオ第2放送)も気に入っている。

毎夜毎夜、浴びるほどラジオを聴いていたのは、
70年代の前半頃、中学、高校の頃。
深夜、机に座って、それとも根ながら耳元にラジオを置いて、
じっと流れてくる声に、音楽に、耳を傾けていた時間。
それ以降、たまに車のなかで聴く以外、
ほとんど聴かなくなってしまっていたけれど、
ラジオから受けた影響は大きかったと思う。

いまあらためてラジオを聴く。
その時間のなかに身をおいてみる。

ネットが普及しさまざまなものがデジタルデータ化された
おびただしい情報の海のなかにいると、
深夜、静かに耳をすませて聴くラジオの時間はなくなった。
かつてのラジオの時間は、たしかにぼくの呼吸とともに進んでいた。
今やさまざまなものはデータとなり、
必要なものだけが引き出しから取りだされる。
とても効率的だ。
かつての時間は「時間銀行」に預けられ、効率よく運用される。
必要なものを必要なだけ必要な時間を使って消費すればよい。
じっと耳を澄ませる時間はあまりにも無駄が多い。

けれども、無駄と思えるもののなかにしか存在できないものがある。
「混沌」に親切心から穴ぼこをあけてあげると「混沌」は死んでしまう。
そのように、ぼくという可能性の「混沌」はあまりの効率化のために死にかねない。

おそらく母胎としての「混沌」をうまく活かすことができるためには、
それなりの時間の流れが必要であるように思う。
便利で効率的なことが求められるところはそれとして、
そうでない「混沌」の生きる海は可能性の母胎として息づかせたい。

とはいえ、かつてのようなラジオの時間をもはやもつことはできないだろうし、
今それが同じようなかたちで必要だとは思わない。
今必要なのは、むしろ静かに集中したり、
あるいは静かに空っぽになることのできる時間のはずである。

そんななかで、あらためてラジオの時間を見直してみたいと思っている。
浜辺でひいては返す波の音に耳を澄ませながら遊ぶ時間のように、
本に流れている時間よりもずっと息づかいを感じられる時間のように、
そのなかで揺れ、遊ぶ時間を持ってみたい。

しかし、ネットやスマホでラジオを活用できるのはうれしい。
NHKラジオは、「らじる★らじる」がある。
http://www3.nhk.or.jp/netradio/
(エリアによって配信されないが)
パソコンがそのままラジオ受信機となる
「IP(Internet Protocol)サイマルラジオ」の配信サービスradikoがある
http://radiko.jp/
スマホになると、たくさんのアプリがある。
とくにRazikoは、予約録音などもできたりする。